ダイヴ iii 第一話「命令者」
白石晶
今からちょっとだけ遠い未来。既存の概念とはまったく異なる新しい理論で動作するコンピュータが試作された。それは試作機の段階で、すでに人類が製造してきたコンピュータをすべて束ねても太刀打ちできない計算能力を持っていた。
人類はそのコンピュータを、汚染され、破壊された地球の修繕のために利用した。地球上のすべての要素がモデル化され、シミュレーションされた。そのコン
ピュータは地球上のあらゆる事象を実時間の百倍以上、五百ミリ平方メートルの精度で予測した。正確で高速な地球のシミュレータを手に入れた人類は、一丸と
なって、時間をかけ、確実に作業を行った。やがて、地球に一九五〇年代初頭の自然を取り戻させることに成功した。
その頃にはコンピュータは地球上だけではなく月軌道の少し外側までを素粒子レベルでシミュレーション可能となっていた。その制度でのシミュレーション速度は実時間の倍だった。もちろんシミュレーションの精度は利用方法によって自由に変えられた。
地球救済の手段を計算するという人類の存亡をかけた計算を無事に終えたコンピュータは、その後も様々な予測に使われた。そのおかげで人類は様々な危機を回
避できた。しかし、莫大な計算能力の大部分は使われることなく時は過ぎていった。たった一台だったが、そのコンピュータは早すぎた。それでもコンピュータ
の速度は定期的に向上していた。
そんな状態が続いた。ユーザインタフェースの改革がそんな状態を打ち破った。革新的なユーザインタ
フェースを前提に、コンピュータの新しい利用が開始された。コンピュータの中に仮想的に完全な地球が用意された。この仮装地球を維持するため、コンピュー
タの全計算能力の76.4%が消費された。仮想地球は仮想の生命で満ちあふれた。環境破壊を生き残った種だけでなく、絶滅していった種の生命も仮想的に再
現された。そこには人類と寸分違うことのない仮想人類すら暮らしていた。人類は革新的なユーザインタフェースを用いて自らをコンピュータに接続し、その仮
想地球に降り立った。
その仮想地球ではあらゆるサービスが提供された。すべての健全な娯楽、すべての不健全な娯楽。危険な娯楽も危険を
冒すことなく楽しめるように自然の摂理が制御されもした。各種教育機関や実験施設も用意された。ショッピングモールだってあった。そこには地球上のすべて
が再現された。こうして、地球上にもう一つの地球が誕生した。
人類は自分たちと同じ能力を有する仮想人類と新しい時代を歩み始めた。そんな時代の物語である。
楓は友人であるところの由良の長話につきあっていた。入学式で親しくなってから半年。放課後の教室で、長話をするのが日課になっていた。もっぱら話をするのは由良の方であった。楓は長話というものがあまり得意ではなかったが、聞くこと自体は嫌いではなかった。今日の話題も噂話だった。情報源は友達の友達だ。彼女の話は噂話ばかりだ。彼女の趣味や家族についての話題は皆無。ひたすら、毎日、噂話だった。
「友達の友達に聞いたんだけどね、ネットに出没する怪人がね、大勢の人間を自由に操るために洗脳しているらしいよ。」
「へえ。どうやって?」
「怪人と会話をするだけ。」
「会話をする?」
「そう、会話。会話の度に少しずつ洗脳されてしまうのよ。」
「怪人と話をするだけで洗脳されちゃうの?」
「そうなのよぉ・・・知らない人に話しかけられても返事なんてしちゃ、駄目なんだから。"命令者"に洗脳されるわよ。」
この話題の要点といえる箇所はこれだけだった。尾ひれの相違とか細かい情報も由良はいろいろと説明してくれたが正直細かいところまでは覚えていられなかった。一通り、怪人の話が終わり、次の話題に入りそうな気配を感じたのだが、ちょうど下校案内の放送が始まった。教室の見回りにやってきた担当教員の西嶋先生に追われるように、楓たちは教室を後にした。廊下で由良に「さよなら」
を言って、ダイヴアウト。楓は自分の部屋で目覚めた。目覚めると同時に電子音が響いた。楓宛にメッセージが届いた音だ。差出人は由良だった。開いてみると動画メッセージで生身の由良が「楓、また、あしたもよろしく」
と手を振っていた。楓は文字だけを使って同じ文句で返事を返した。楓はダイヴシステムのリクライニングシートから起き上がり、部屋の隅に積み上げてある本を一冊抜き取って、ベルトに吊してある汎用ターミナルにつっこんだ。ターミナルは楓の脳内に構成された微少機械の回路との回線を開く。微少機械は誕生後、人格形成がある程度進んだ段階で投与され脳の未使用部分を再組織化する。これにより、暗算能力や記憶力の拡張を行い、コンピュータとのインタフェースを同時に作成する。インタフェースを通じて本のデータが脳内で合成され、脳裏に本のイメージが浮かぶ。イメージの合成は脳だけでなく、ホームコンピュータの演算能力も借りて行われる。仮想世界を作るコンピュータと同じ技術で作成されたホームコンピュータが、今ではどの家にも完備されているのだった。大きさはマッチ箱程度だからどこにでも設置できる。楓そうやって脳内に出現した仮想の本をパラパラとめくった。手を使わなくても自由自在に本を操れる。パラパラパラパラ・・・。楓は本をターミナルから抜き取る。表紙とあらすじの解説は悪くないのだが、導入部分がイマイチだった。これは今度読むことにして、別の一冊を引き抜き、同じように内容を確認を始めた。何冊目かでようやく気に入った本を見つけた。楓はその本をベッドの上に投げ出すと、キッチンに向かった。楓はキッチンの壁に備え付けてある販売機から、少し迷ってカレーライスを選んだ。カレーライスが販売機から出てくるのをぼんやりと待っていると、兄がやってきた。楓は片手をあげた。兄も同じ仕草を返してきた。楓と兄の仲はすこぶる良好であった。
「よう、妹。」
「おかえり、兄。」
「学校はどうだ?なんか楽しいことあったか。」
「相変わらず、ないわね。平穏無事とはこのことを指す言葉でしょうね。」
「なるほど、平穏なのは悪いことじゃない。・・・今日のメシもカレーか?」
「カレー。」
「お前、他に食うモンないのか。」
「昨日はミートなパスタだったんだけどね。」
「へえ。カレー以外も食べられるのか。てっきりカレー以外嫌いなのかと思ってたぞ。」
「いや、別にカレー以外が嫌いって訳ではないのよ。」
「だろうな。昔はいろいろ食ってたからな。・・・俺は何食おうかなぁ・・・。俺もカレー食ってみるか。」
兄は販売機に近寄り、カレーのボタンを押した。同時に楓のカレーができあがってきて、取り出し口に姿を現した。楓は食卓に座って、兄のカレーができるまで待ってやることにした。すぐに兄のカレーもできあがり、たった二人だけれど、家族の団らんとなった。といっても、仲が悪くなくても、年齢が離れているせいかあまり話題らしい話題もないので適当な会話をしつつ、黙々とカレーをつつく兄妹であった。湯気で眼鏡が曇る。楓は眼鏡を外し机の上に放った。硬質で軽量な樹脂は多少乱暴に扱っても傷一つ付きようがない。ついでに一本に緩く編んでいた髪の毛を解く。長い髪の毛がサラサラと音をたてた。そろそろ食べ終わるというタイミングで兄が、こんなことを言い出した。
「そうだ。知ってるか?」
「何を?」
「噂。」
「噂?」
「そう、噂。」
「噂ねぇ・・・。」
「まあ、聞け。友達に噂好きがいるんだろ?教えてやれよ。」
兄の噂とは、偶然にも由良が話してくれた内容とほとんど同じだった。メジャーな噂なのだろうか。由良の噂と違うところもあった。実際に普段と様子が変わってしまった人がいて、その人が変な男"命令者"と熱心に話をしている姿が目撃されていたとか何とか。今日の話には出てこなかった尾ひれが追加されているヴァージョンだった。
「それ、聞いたよ、今日。」
「へえ。誰に?」
「由良。」
「由良・・・由良ちゃんというとあの胸がちょっとおおきな・・・。顔はどんなか覚えてないが・・・。」
「へえへえ、その由良ちゃんでございますとも。悪かったね、ガリガリで。」
「いや、ガリガリでもデブデブでも完璧だったとしても、妹の体は俺には関係ないからな。」
「・・・ごもっともで。」
「安心しろ。お前の顔はいいぞ。」
「自画自賛というやつだね。同じ顔だろう、兄よ。」
「その通り。」
「そうか。噂好きの友達って由良ちゃんだったか。」
「そうなの。だから、すでに既出なわけ。」
「そりゃ残念だな。」
「でも、兄の話には由良の知らない尾ひれ部分があるから教えてあげるわ。」
「今度、その集まりに呼んでくれよ。」
「集まりったって、二人で話してるだけ。それに、兄は由良にちょっかい出しそうだから却下。」
「そりゃ、残念で、無念だ。」
「へえへえ。」
「さて、もう食い終わったなら、ゴミは俺が片付けとくから、いっちまいな。」
「サンキュ。」
楓は兄にゴミを渡すと自室に引き上げた。楓は早速由良にメッセージを打った。この時間なら、由良はまだ情報収集に明け暮れているはずだ。勉強を始めてしまうと由良は集中してしまうから、リアクションがなくなってしまう。脳内の微少機械が刻む時計では夜の十時だった。夜も更け始めている時間だが、睡眠時間は微少機械の影響で一日三十分程度で問題ない。学校へ行く前に三十分確保できればいい。人類は仕事や勉強以外に自由に使える時間を如何に楽しく過ごすかという大問題を仮想世界で解決していた。仮想世界にはありとあらゆる娯楽があった。限定的ながら犯罪ですら娯楽として提供されていた。由良からの返事はすぐに返ってきた。仮想空間で楓と由良は顔を合わせた。部屋のデザインを選んだのは由良なのだが、どういう趣味だろう。古びた雰囲気の和室である。縁側に面した障子が開け放たれており、見事な満月が見えた。部屋の照明はその月明かりだけだった。縁側から外はどこまでも続く荒野が広がっている。渋いというか何というか・・・。
「なかなか、興味深い状況になってきたみたいね、楓。」
「何が?」
「今日の話、登場してから間がないのに各地に広まってるの。で、どれもこれも最後の尾ひれが部分だけが違ってて多彩なのよ。昨日までに確認できた尾ひれ以外に、今日私たちが学校で勉強している間にかなりの新しい尾ひれが出現してる。」
「へえ。」
「で、楓のお兄さんはどこでその話を?」
「さあ・・・。」
「今すぐ、ここにお兄さんを招待しょうましょう。」
「ええ?」
「はやくはやく、一秒でも!」
なんだか知らないがエラいはしゃぎようだ。知り合って半年しか経っていない友達には未知の顔がありそうだった。楓は肩をすくめると兄へメッセージを送信した。兄の仕事はよく知らないがライターだかなんだかをしているらしい。楓の学費を払ってくれて、家計も支えている。それなりに稼いでくれているようだ。ありがたいことである。家では記事を書いていたり、情報集めに余念がないらしいから、今も仮装空間でなにかしているに違いない。兄からの返事もすぐに返ってきた。由良が話をしたがっていることを伝えるとうれしそうな顔で、この空間へやってきた。やれやれだ。
「はじめまして、大林由良です。」
「はじめまして、美しいお嬢さん。楓の兄、海棠です。」
「兄よ・・・頼むからいきなり美しいとかいうな・・・。」
「まあ、そんな話は兎も角、来ていただいたのは噂話の出所を知りたいもので・・・。」
「ああ、あの話か。えっと、俺が記事書いてる雑誌のバイトの女の子に聞いた。」
「なるほど・・・。その子の連絡先とかわかります?」
「・・・聞いてあるけど・・・。」
「教えてください。」
「いや、でも・・・人の情報を勝手に・・・。」
「お願いします。職場の場所だけでもいいわ。」
「でも・・・。」
「教えなさい!!」
由良が吠えた。楓はゆっくりと部屋の隅まで下がった。そうしてから、楓は茶室の隅で首根っこをつかまれ、吊し上げられる兄の姿を傍観した。下手に関わるとろくでもないことになりそうだった。兄は引きつった笑みを浮かべ、それでも抵抗しているようだった。
「ふーむ・・・。ねえ、楓。」
「は、はい!!」
由良の累は楓に及んでしまった。楓は壁を背にして立っていたから、由良が迫ってきても逃げる場所はなく、追い詰められ放題だった。由良の右手がスッと楓の顔の高さまで上がった。思わず、首をすくめてしまった。彼女は人差し指で楓の顎をクイッともちあげた。由良の両手は気がつけば楓の頭の左右の壁につけられていた。楓の顔に彼女の顔が迫ってくる。
「な、なにを・・・。」
由良は楓の耳元に口を寄せると静かにささやいた。もう一センチで由良の唇は楓の耳に接触するだろう。生暖かい息が耳にかかった。
「楓・・・お兄さんの職場ってどこかしら?」
「ほ、本人に・・・。」
「教えてくれないの・・・。」
「私知らないし・・・。」
「ふーん、そう・・・。なら、私の知的な探求はここまで、ね。」
「・・・そうなるかしら。」
「仕方がないわね。」
「ええ。」
「知的な欲求が満たされないのは、もう仕方がないから・・・獣の欲求を楓で何とかして満足してしまおうかしら・・・。」
「ヒッ。」
由良は楓の耳をペロッとなめた。楓は助けを求めて兄を見た。楓の悲鳴で兄が我に返った。兄は楓と由良を引き離した。
「おい!あんまりそいつに変なことしないでやってくれ。」
「なら、教えて。」
「・・・教えるから、妹とは普通の友人としてつきあってやってくれ。」
「そりゃ、もちろん。で?」
「俺が言ったって言うなよ。」
兄は楓に変なことをしないという条件で噂の出所を由良に教えた。
「ありがとう。さて、冗談はこれぐらいにして・・・。」
「本当に冗談だったのか、君は・・・。」
「お兄さんの目の前で、楓を襲ったりなんてしないわよ。」
「・・・その言い方だと、まるで俺がいなかったら襲ってたみたいだぞ。」
「気のせいよ。ね、楓?」
「・・・そうであってほしいわね。」
「ま、ちょっと行ってくるわ。」
まだ、いつもと違う雰囲気の由良は部屋から消えた。すぐにメッセージが届いた。曰く、一時間後にまた集合。楓と兄は畳の上に座り込んだ。両者ともにそのまま寝転がった。
「おい、あの子変だぞ。」
「そうみたいね。」
「妹よ、普通の友達を作れ。」
「知らなかったのよ。」
「友達は選べ。」
「そうしたいところではあるわね。」
「あの様子では、二人っきりになったら変なことされるかもしれんぞ。」
「学校では普通なんだけどなぁ・・・。」
「妹よ。」
「なによ。」
「お前と俺は家族だ。」
「・・・そうね。」
「それに残念だが、家族は二人しかいない。」
「・・・。」
「だから、互いに心配かけるのは禁止だ。」
「了解。でも、まあ、由良と会うのは仮想世界だけだから万が一があっても問題ないわよ。」
「それはどうなんだろう・・・まあ、お前がそれでいいなら、これ以上はいわん。」
兄は大きくため息をついて部屋から出て行った。楓もダイヴアウトする。楓はとりあえず、三十分だけ本の世界に没頭した。本の世界は偽の世界だった。同じ偽物でも仮想世界とは違った意味での偽物で、今日は何故かそれがひどくありがたく思った。残り三十分は何だか疲れたので睡眠時間に充てた。
楓が再び和室へダイヴインしたとき、すでに由良は楓を待っていた。由良は開口一番こういった。
「いくわよ。」
「どこに?」
由良の話はこうだった。噂話、特に都市伝説に属する噂話は最後にはその噂が実際のものとなり、それ以後噂話は急速に衰退するのだという。由良が統計を取った噂話の衰退間際の状態は、何がどうなのかは知らないが、ちょうど今まさにこの瞬間にも衰退に向かう出来事が起こっても不思議ではない状態らしい。そして、由良は最後にこういったのだった。噂話の終わりがみてみたい、と。時間はそろそろ三時になろうとしていた。深夜だ。仮想世界の時間と現実の時間は基本的に同じ時間を刻んでいる。しかし、人類の大半は睡眠時間の制約から解放されている。楓は由良の指定した深夜の公園へ座標移動した。仮想世界では瞬間移動も簡単にできる。ただ、行きたい場所をリストから選ぶだけだった。深夜でも公園は煌々たる明かりに照らし出され、真昼のような明るさだった。そしてそこは人であふれていた。子供連れもいれば、カップルもいた。怪しい露天商もいるし、金髪の外国人の二人連れ宗教家もいた。警察官もいれば、犯罪者もいた。彼らはこの空間で自分と同じ価値観を持つ者や接点のある者だけが存在しているかのように振る舞った。多数の価値観が互いに独立して同じ空間を占有していた。由良が選んだ場所はここだった。ここはあの噂話が生まれた場所。そして、あの噂話の尾ひれがもっとも発生した地区の中心。ここが、あの噂話の爆心地だった。由良と楓は公園をうろついた。わざわざ、人気の少ないところを選んで歩いた。由良はこの今日という日にこの場所で"命令者"が現れると信じているようだった。楓はそんな話を信じてはいなかった。都市伝説の終わりに本物が出るというのも都市伝説じゃないのかと思っていた。しかし、入学して初めてできた友人の深夜の散歩につきあうのも悪くないと思った。だから、楓はこの場にいるのだった。由良と楓は歩きながらいろいろな話をした。珍しく楓もたくさんの話をしたし、由良も噂話以外の話をした。由良の家族は由良を含めて四人らしいこと。由良は予習復習を欠かさないこと。これはもちろん知っていたけれど、由良は噂話が何よりも好きなこと。楓が身をもって知ったばかりだったが、由良は熱中しすぎると周りが見えなくなること。そして楓について。楓の家族は兄だけということ。楓の趣味は読書だということ。楓のコレクションの中にはカードじゃない紙を綴じた本があり、時代遅れだけどそれはそれで悪くないこと。楓がめがねをかけているのは、コンタクトレンズや視力回復手術が怖いからだということ。楓はいろいろとスレンダーなのを少々気にしていること。楓には読んでいない本が何十冊もあるのに新刊を買ってしまうこと。楓の兄は物書きらしいということ。楓たちは互いに今まで話をしなかった話題で積極的に話をした。楓たちは、この時間を心の底から楽しんだ。楽しかった。しかし、そんな時間にも終わりが訪れた。不意に誰かが、楓たちの背後から話しかけた。その瞬間、楓たちを取り巻く空気が変質した。話しかけてきたのは男だった。楓は直感した。彼が"命令者"であると。由良もまた彼がそうであると確信していたに違いない。彼はいった。
「お嬢さんがた・・・。」
楓たちはゆっくりと振り向いた。男だった。浮浪者だ。この世界にアクセスができるということは、端末とホームコンピュータを家に持っていて、かつ幼少時に微少機械の注入を受けているはずだ。だからこの世界の浮浪者は、好きこのんでそのような姿をしている場合でない限り、人工知能に限られる。この男が人工知能でないなら、どこか現実世界でターミナルに腰を下ろし、コンピュータとホームコンピュータと脳内でデータの入出力を行っているはずなのだ。浮浪者のコートの袖は長く、だらんと手を覆っている。袖が邪魔で手の甲にある人工知能マークが見えない。人工知能は手の甲に人工知能である印を刻印されている。古い半導体の意匠だ。正方形の薄い石から足がたくさん出てるような半導体だ。暗いのと、長く伸びた髪の毛と髭で相手の顔がよくわからない。が、何かしらよくない感じのする男だった。楓は震える声でつぶやいた。
「な、何・・・?」
めまいがした。楓はフラッと足がもつれて尻餅をついてしまった。由良は男をじっと見据えて、つぶやいた。
「楓ちゃん・・・実物の登場みたいよ。」
「え・・・。」
「これ以上相手が何か言っても話しかけたり、返事をしたらダメだからね。とりあえず、逃げるよ。」
「ええ・・・。」
由良は楓の手を取りグッと引き上げた。楓はまたフラフラする足で何とか立ち上がった。由良は楓が立ち上がると同時に楓の手を引いて、男と反対方向に駆けだした。走る。人通りの多い場所を目指し、一直線に薄暗い道を駆け抜ける。楓たちの背後から足音がついてきた。男が追いかけてきのだろう。
「はぁはぁ、楓ちゃん、マラソン選手を・・・。」
「了解。ぜぇぜぇ、短距離走じゃなくていい?」
「はぁはぁ、長期間逃げるかもよ?」
「なるほど。」
楓たちは有料サービスの回線を開き、マラソン選手の基本データを購入した。同時にインストールが開始された。楓たちの脳内の運動に関する部分の神経の配線がホームコンピュータに保存され、新たにマラソンランナーのパターンが上書きされる。楓たちは数分でマラソンランナーの走り方をマスターした。知らないマラソンに関する知識と体の動かし方が自分のものとして感じられた。楓たちの体格に合わせた走り方を体が無意識に選ぶ。これはスライド走法というらしかった。楓たちは全身のバネを使って飛び跳ねるように走った。歩幅を大きくかせぎ疾走する。男との距離が少し開いた。男にも同じ手順をとられると意味がないのだが、今のところそのような気配はなかった。しかし、知識はあっても筋肉や肺活量という基本的な日々のトレーニングで習得する部分はそのままだった。例えるなら、幼児向け自転車に競輪選手を乗せたような感じ。すぐに自転車が悲鳴を上げるか、本来の速度が出ないだろう。お金を払えばそれも何とかなるのだが、それらデータが体に反映されるのには時間がかかる。今回はそんな時間がなかった。楓たちの体が悲鳴を上げ始めた。薄暗い通りを楓たちは必死に駆け抜け、ついに明るい場所に飛び出した。由良が足を何かに引っかけ転倒する。楓もそれに巻き込まれ、由良の上に倒れ込んだ。すぐに立ち上がろうとしたが、体がいうことを聞かない。全身の筋肉が麻痺したかのようだった。楓たちは周りに視線を向けた。
「由良・・・なんか全然、状況は好転してないみたいよ。」
「・・・そうみたいねぇ・・・。」
楓たちをぼんやりとした瞳の人間が取り囲んでいた。二十人ぐらいだろうか。古い映画にあったゾンビの群れのようだった。もちろん、普通の人たちもいるのだが、彼らは遠巻きにこちらの様子を見ているだけだった。まあ、あまり関わり合いになりたくない状況ではあった。男が通路を抜けてきた。
「ダイヴアウトする?」
「そうね・・・最後をみたいけど・・・。」
楓たちがこの場から逃走を決めたときだった。楓たちと男の間に新たな人物が出現した。女性だった。
「まさか、あなたたちがこいつをあぶり出してくれるなんてね・・・。あなたたちは、ちょっとそこで待ってなさい。」
それは楓たちの担任、西嶋先生だった。先生は花柄の刺繍がしてあるスリムジーンズに薄いピンク色のワイシャツ姿だった。男はその姿を見たとたん、脱兎のごとく逃げ出した。先生は一気に駆け寄ると男を蹴り倒した。さらに転倒した男の足を踏みつけた。くぐもった音は骨の折れた音かもしれない。男は自由の利かなくなった体で、必死に這って逃げようとしていた。周りを取り囲んでいたゾンビみたいな人たちが一斉に先生に飛びかかった。先生はヒラリとそれをかわし、指を鳴らした。その途端彼らの姿が消えた。男は引きつったような笑みを浮かべ、その光景を眺めていた。
「さて、残ったのはあんただけだよ。」
「お前は・・・アレか。」
「たぶんそうなんじゃない?」
「なるほど・・・。」
「で、イタズラの道具は誰からもらったのかしら?」
「しらねぇよ。気がついたらこうなってたんだ。」
「あ、そう。まあ、あんたは規格外品になったから、この場で消えてもらうわ。」
先生はそういって、男をジッと見据えた。男は引きつったような笑みを浮かべたまま、消えた。遠巻きにその光景を眺めていた人たちはいつの間にか姿を消していた。楓たちと先生だけがこの公園のこの場所に残っていた。先生は楓たちに付いてくるようにいって歩き出した。先生は公園を出て、そのまま近くの喫茶店に入った。楓たちもそれに続いた。適当な席に腰を下ろすと先生はいった。
「今村さんも大林さんも、あんまり危ないことしちゃダメよ。」
「以後気をつけます。・・・あの男はなんだったんですか?」
「私、あの男と話したとたん足の力が抜けて・・・。」
「そうねぇ・・・。」
先生はあの男を追いかけていたこと。先生はデバッグ専門チームの特殊チームであること。デバッグ専門チームは日々この世界で発生するバグを修正していること。先生は管理者グループに属している数少ない人工知能のメンバーであること。あの男は人工知能であること。あの男は何者かに不正に改造されていたこと。あの男が改造されて獲得した能力は仮想世界から、現実世界からアクセス捨ている人間の脳神経の結合を変化させる能力・・・洗脳のための能力であること。洗脳は一気に行うことができず、完全に意のままに制御できるわけではないこと。あの男を改造した何者かは、この機能をより完全なものにしようとしていたのではないかということ。洗脳されてしまった人の脳は、同じ技術により可逆修正がある程度可能であること。これらのことは誰にもいってはだめだということ。先生は語り終えると冷めたコーヒーを一気飲みし、お代わりを注文した。楓たちは冷めたコーヒーをチビチビ飲みながら、そんな先生を驚きのまなざしで見つめた。
「ま、そんな感じなのよ。」
「な、なるほど・・・。」
「しかし、あなたたち、なかなかすごいわね。」
「何がでしょう。」
「噂だけを頼りに、あの場に行き着くなんて。」
「それは由良が・・・。」
「由良さん?」
「あ、あのですね。私は噂の最後がみてみたかったんです。」
「噂の最後?」
「あの・・・最後には実物が出るっていう・・・。」
「なるほどね。まあ、程々にした方がいいかもしれないわね。」
「すいません。」
「まあ、こっちの世の中にはいろいろとあるのよ。」
「こっち?」
「そう、こっちの世の中。仮想世界。私たちがいる世界は私にとっては仮想でも何でもなくて、現実なのよ。」
「コンピュータが作った世界が現実ですか?」
「そうね。危険な目にあったとき、あなたたちはダイヴアウトしたら即危険からは逃れられるでしょう?」
「そうですね。私たちは実際にはターミナルの前で寝ているわけですから。」
「そうね。でも、私たちはこの世界で暮らしているのよ。」
「そうですね・・・で、こっち世の中のいろいろって・・・。」
「あなたたちの世界はずっと同じ法則で守られて、支配されているの。」
なんだか、難しい話になりそうだった。私は曖昧にうなずいた。
「はあ。」
「でも、この世界はあのコンピュータで丸々作り出されたの。」
「仮想ですからね。」
「そう、仮想だから。そして、その世界の創造を行ったのは人間なのよ。」
「今年中にコンピュータ歴史の授業でやりますね。」
「私が担当よ。ま、それはいいとして、人間が作ったものには間違いがあるの。」
「この仮想世界は完全な地球の模造品だと聞きましたが・・・。」
「完全な模造品というのは間違いね。完全ならあなたたちはこの仮想世界で好きな場所に瞬時に移動したりできないし、ダイヴインやダイヴアウトはできないわ。」
「どういうことです?」
「あなたたちがダイヴアウトしたあなたたちにとっての現実の世界でできないことも、この世界では可能なこともある。ということはあなたたちの世界と私たちの世界は違うということでしょう?」
「そうですね。」
「完全な模造品にはあり得ない追加の機能があるわけ。そういう機能が私たちのような仕事をする人間を必要としてるの。そして、あの男のような悪戯をする人間も現れる。まあ、都市伝説とかが好きならこっちの方が楽しい世界かもしれないわね。少なくとも不思議な現象を本当に発生させることができるわ。危ないけどね。だから、こっちで噂を追うのは程々にしなさいってことなの。」
楓たちは頷いた。由良は現実ではあり得ないことがおこる世界に興味を持った。楓は現実ではあり得ないことが起こる世界が少し怖くなった。
「さて、今日はこれで失礼するわね。今村さんも大林さんも、また明日。」
「また明日、先生。」
「さようなら。」
西嶋先生は店から出て行った。残った楓と由良は少しだけ雑談をしてダイヴアウトした。いつも通り楓は自室の端末で目を覚ました。楓は部屋を出ると廊下のクローゼットを開いた。クローゼットの最下段は引き出しになっていた。楓は引き出しの中を確かめた。中には三十センチ四方のガラス容器に入ったマッチ箱ぐらいのホームコンピュータが入っていた。仮想世界を構成するコンピュータとこのホームコンピュータは常にデータのリンクを行い、楓とその兄に仮想世界へのアクセスを提供していた。今までは仮想世界は当たり前の世界で何の疑問も感じなかった楓だったが、何か仮想世界に違和感のような物を感じはじめた。
終