雨がシトシトと降り続いていた。最後に晴れた空を見上げたのは、先週の初め頃だっただろうか。すでに記憶は曖昧だった。天気予報によれば、来週にはこの長い雨もいったん途切れるらしかった。私は窓越しに雨の街をボンヤリと眺めた。地面に、屋根に、人の傘の上に、ありとあらゆる場所に、雨は際限なく降り続いていた。ザッーっという雨の音が常に聞こえていた。
世の中はゴールデンウィークだった。多くの人々はこの雨に不満をもらしつつも長期の休みを満喫していた。しかし、私はこんな所でジッと外を眺めているだけだった。はっきり言って、退屈だった。眺めている外の風景も、どこにでもあるような街の風景だった。本当に日本中のどこにでもありそうな、街並みだった。私にはじっくり眺める価値を、その街並みに対して見いだすことができなかった。あくびが出そうになったが、何とかかみ殺した。
私は高校を卒業して、地方の大学へ進学した。そのまま同じ大学の修士課程へ進学し、卒業しても、そこで就職した。それ以来、ほとんど実家には寄りついていなかった。気まぐれを起こし数年ぶりに帰ってみれば、ほとんど記憶にない親戚の葬儀とかち合ってしまった。運の悪いことこの上なかった。今頃、大学の友人どもは何をやってるだろうか。最近つきあい始めた彼女は何をしているだろうか。そういえば、下宿の生ゴミは捨ててきただろうか。捨て忘れていたら、今頃はナウシカの腐海顔負けの世界が誕生していることだろう。新種の菌類なんかがはびこっていても、私にはわからないのが残念だった。とりとめのないことばかりが、次々と頭に浮かんでは消えていった。
三十分もそうしていただろうか。外の風景に飽き飽きした私は室内を見回した。二十名ほどの人間が神妙な顔で座っていた。中には居眠りをしたり、ボンヤリしている人も若干名いた。仲間がいるのは心強い限りだった。
老若男女。様々な人間がいた。皆に共通していることといえば、暗く沈んだ色の服を着ていること、数珠を持っていること、余り身動きしないこと・・・ぐらいだろうか。今までに見たことのある人も、そうでない人もいた。見たことのある人代表は両親と妹だが、数年のブランクがあるため記憶の中の姿とは多少異なっていた。他には私の従兄や従妹達、その両親である叔父さん・叔母さん達がいた。こちらは記憶の中の彼らと、さほど変わらないように思えた。それ以外の全員が見たことのない人達だった。見たことのない人代表は、何といっても本日の主役である棺桶の中の水島さんだった。
母は一時期、水島さんの世話になったことがあったようだ。しかし、私には無縁の人だった。なぜか妹は泣きはらし、目を赤くしていた。妹は全然知らない人のために泣ける性格だったのか。妹の知らない一面だった。
棺桶の前では、坊主が何やら唱えていた。怪しい新興宗教の教祖の呪文と坊主のお経、私には区別できなかった。お経というのは聞く度に何となく意味がわかったり、わからなかったりした。内容の理解できるものと、できないものを聞き比べたら何かわかるのかもしれなかった。まあ、そこまでするつもりもなかったが・・・。坊主の呪文の伴奏は木魚だったり変な金属製の太鼓だったりした。どれも地味な外見だったが、音は大きかった。楽器以外にも数種類の小道具が坊主の周辺に配備されていた。以前出席したことのある葬儀で見かけなかったものが用意されているのは、宗派の違いだろうか。それぞれの小道具に何の意味があるのかまったくわからなかった。未だ使用されてない小道具があった。全部使い終わったら、この場がお開きになるのだろう。
部屋の中には線香の香りと供えられた花々の香りが、混じり合って立ちこめていた。時折、防虫剤の香りがそれに混じった。私は一通り辺りの観察を終えると、棺桶を見つめた。普段の生活で見かけることなどほとんど無い人間の死体がそこにあった。物言わぬ謎の死体だ。遺体と死体の違いは何だろうか。身元がはっきりしている場合は遺体で、身元不明だったら死体と呼ぶのだろうか。だとしたら、遺体というべきだろうか。私もいつかはああなるのだろうが、いまいち実感がもてなかった。
それにしても、一体いつまでこの坊主は意味不明な呪文を唱えるつもりだろうか。個人的には早く終わらせてほしかった。坊主が入場したとき、よそ見をしていたため坊主の顔は見なかった。坊主は何から何までツルツル・テカテカとしていて、こちらを向いて顔がなくても違和感はなさそうだった。私は『こんな顔ですかい』といって振り向く、古典的なのっぺらぼうの話を思い出した。私は自らのくだらない妄想に肩をすくめた。坊主を呼ぶと一体どれぐらいのコストがかかるものなのだろうか。坊主丸儲けなどとよくいうが、相場など見当もつかなかった。もしかして、喪主が料金を奮発しすぎたせいで、坊主も時間を延長してサービスしてくれているなんてこともあるかもしれなかった。
くだらないことばかりが次々と思い浮かんだ。私は再び葬儀場内を見回した。
先ほどに比べて、居眠りしている人間の数は着実に増加していた。坊主のお経が睡眠音波であるのは間違いなさそうだった。アメリカでは兵器として研究されているに違いない。
その時、坊主の独壇場であった葬儀場に新たな人物が現れた。膠着状態にあった葬儀場内の雰囲気が一転した。ザワザワとした気配が広がった。居眠りをしていない誰もが、新たな登場人物に視線を向けた。私も例外ではなかった。新たな人物は二人だった。
一人は背の高い老人だった。この薄暗い雨の日、室内であってもサングラスをかけていた。手には白い杖を持っていた。それ以外に目立った特徴は無く、どこにでもいそうな老人代表だった。老人は何となく的外れの方向に顔を向けていた。白い杖を持っていることだし、老人は目が悪いのだろう。
もう一人は・・・少女だった。私には高校生ぐらいに見えたが、中学生かもしれなかった。私には人を見ただけで年齢を当てるなどという特技はなかったのでよくわからなかった。彼女は少しくたびれたセーラー服を着ていた。少し大人びた雰囲気なので、とりあえず高校生ということにしておいた。制服マニアならあるいは制服から判断可能だったのかもしれないが、残念ながら制服については詳しくなかった。そして、彼女の姿は、坊主の催眠音波によって濁った私の頭を一気に覚醒させた。人形みたいというのはほめ言葉にならないかもしれないが、彼女は人形のように完璧な容姿をしていた。すべてが整っていた。人形は人形でも西洋の人形だった。彼女が日本人らしくないわけではないが、彼女の姿はどこか西洋の人形を彷彿とさせるのだった。私の中でこの場の主役がツルツル坊主から、少女へと切り替わった。老人と少女は皆が済ませてしまった焼香を済ませると、会場の後ろの余っていた椅子へ移動した。
彼女の動きを追いかけて後ろを向こうとしたとき、私の脇腹に鋭い痛みが走った。妹の肘だった。いつの間にか泣き止んだ妹は私の耳に口を寄せ、小声で話しかけてきた。私も小声で応じた。
「なによ馬鹿みたいに口開けて・・・まったく。」
「美人だよな。なあ、あれ誰だ。しってるか?」
「・・・知らないわよ、あんなやつ。」
妹はプイッと向こうを向いてしまった。私は、妹が彼女を知っているんじゃないかと思った。彼女をもう少し観察したい気がしたが、後ろを向いて盗み見るというのも大人げない。妹を問い詰めるという案も魅力的だが、妹はそっぽを向いてしまった。答える気はまったくないに違いなかった。
私はおとなしく坊主の頭に視線を移した。残念ながら、いくらツルツルとしていても坊主の頭に謎の彼女の姿が写り込むことはなかった。その後、葬儀は無事に終わり、私たちは家へと帰った。帰り道に謎の彼女とおまけの老人を見かけることはなかった。
ゴールデンウィークの残りはダラダラと過ごして浪費してしまった。その後分かったことだが、遅れてやってきた彼女は謎の遺体の人の養子らしかった。彼女の名前は綾というらしかった。謎の遺体の人の名字は水島だから、すなわち、彼女のフルネームは水島綾に違いなかった。水島綾さんについては、家族の中でどうやら私だけがそのことを知らないようだった。私が実家を離れ、大学に入ってから彼女の情報が家族にもたらされたのだろうか。何となくのけ者にされているような気がし、居心地の悪さを感じた。そして、何日か実家で過ごしていると、何年も実家に連絡もしていなかった私は、確かにこの家ではのけ者以外の何者でもないことに気がついた。そうして、ゴールデンウィークは終わり。私は下宿に帰った。
年が明けて、三月中旬。金曜の夜だった。私は普段なら彼女と週末を過ごすのだが、今週はキャンセルになってしまった。今晩、私の下宿に妹が来るという連絡があったのだ。妹は四月から私の通っていた大学に通うことになった。そのため、この近所に下宿を探すためにやってくることになったのだ。
確かに私の下宿は、大学から遠過ぎもせず、かといって近過ぎもせず、おまけに商店街も近かった。この近辺はあの大学に通うならばベストなロケーションだった。遠過ぎれば講義を受けるのが億劫になるし、近過ぎるとサークルや友人のたまり場になったりするのだ。生活必需品や食料品も徒歩数分の商店街に行けば、すべてがそろった。二十四時間経営のコンビニも目の前にあった。本屋と電車の駅だけが少々離れていることを除けば、文句のない場所だった。離れているといっても徒歩十五分だから問題なかろう。自転車などを使えば、遠いというほどの距離でもなかった。
私がこの下宿に住んでいるのも、元はといえばそれらの理由によるものだった。就職してからも、引っ越すのが面倒でそのまま居着いていた。私の住み着いた家は学生向けの下宿らしかったが、卒業しても別に文句を言われていなかった。学生限定というわけではないのだろう。お金さえきっちりと払っていれば文句もないのだろうか。
そんな私の下宿をベースに妹は下宿を探すつもりらしかった。私としては面倒なので、妹にはビジネスホテルを取れといったのだが、妹は時間をかけてよい物件を探したいといって聞かなかった。
妹は私の下宿に一週間ぐらいいるつもりのようだった。前もって妹には、最寄駅からの地図と下宿の合い鍵を郵送しておいた。勝手に一人で来るだろうと思っていたのだが、当日の夜になって両親から妹を新幹線まで迎えに行けという電話がかかってきた。会社定時で上がって、下宿に戻り、散らかり放題だった下宿の片付けをすると思ったより時間をくってしまった。私は一休みする暇もなく、最寄駅まで自転車をとばした。十分で最寄駅へ。そこから電車を乗り継ぎ、新幹線のホームへ到着したのは、さらに三十分後だった。
ホームに博多行きの最終がもうすぐ到着するというアナウンスが流れた。同時に携帯電話が振動した。私の携帯は購入して以来ずっとマナーモードだった。どんな音が鳴るのか聞いたこともなかった。液晶画面で電話番号を確認すると、妹からの電話だった。
「おう。今ホームにいるぞ。」
「もうすぐ着くから、六号車の前の方。」
「へーへー。切るぞ。」
「あ、待って。ねぇ、おにぃちゃん、明日は下宿探しつきあってくれるの?」
「あ?」
「いや、つきあってくれるのかなーって。」
「どうしてもというならつきやってもいい。」
「じゃあ、どうしても。」
「しゃあないな。午前中はちょっと用事あるから、午後からになるぞ。」
「何よ、その用事って私より優先な訳?」
「仕事だ。最優先。俺はお前がいなくても死なないが、仕事がないと死ぬんだよ。」
「グズグズやってるから仕事が残るんじゃないの?」
「うるせえなぁ。切るぞ。」
「図星?」
「うるさい。俺の仕事は早いので有名なんだ。俺は悪くいないって。もう到着だろ?じゃ。」
私は携帯の電源を切り、ポケットにつっこんだ。すでにホームからは新幹線のヘッドライトが見えていた。そこそこ距離があるため、余り動いているようには見えなかった。それでもじっと見ていると、少しずつ近づいてくるのがわかった。やがて、新幹線はホームの目前まで迫り、白線の内側に下がるようにとアナウンスが流れ始めた。新幹線はホームに侵入し、金切り音と共に停車した。ガタンという音ともにドアのロックが外れ、開いた。
乗客は結構多かった。目の前の六号車のドアからは十名前後の乗客がはき出された。酒が入ってフラフラしている人、大きな旅行鞄を抱えている人、すっかり寝てしまった子供を負ぶった家族連れ、腰の曲がった老婆・・・いろいろな人間が新幹線からはき出された。それら乗客の中に妹の姿を見つけると同時に、向こうもこちらに気がついたようだった。
妹は小さな鞄を一つだけ手に持っていた。だいたい一年ぶりに見た妹は記憶の中の妹より少しだけ大人になったように見えた。妹はスリムなジーンズに薄手のクリーム色をしたジャンパーを羽織っていた。記憶の中で長く伸ばしていた髪は、ショートカットになっていた。私は妹の方に歩み寄りながら軽く手を挙げた。妹も同じ仕草を返した。
「よう、久しぶり。」
「うん、久しぶり。」
「・・・ふーん。」
「なによ。」
「いや、ちょっと変わったな。」
「そりゃ、最後に会ってから一年ぐらいでしょ。成長もするわよ。私も四月から大学生よ。」
「一年か・・・葬式以来か。」
「そうね。」
「まあ、いいや、それじゃあ行くか。・・・荷物持とう。」
「ありがと。」
「食事はしたか?俺はまだなんだよ。」
妹は荷物を私に手渡した。私はそのまま歩き出そうとしたが、しかし、妹はその場でジッとこちらを見つめていた。
「どうした?」
「・・・ねえ、私、どんな風に変わった?」
「はあ?」
「え・・・あ・・・っと、さっき変わったって言ったよね。」
「言ったかな。」
「言った。で、私、どんな風に変わった?」
「うーん、髪が短くなった。」
「・・・他には?」
「なんなんだ?どういう答えを期待してるんだ。」
「いいから、他には?」
「・・・そうだなぁ・・・まあ、きれいになったんじゃないか。」
「ホント?ホントに?」
「アホなこといってないで、行くぞ。」
妹の目は妙に真剣だった。こんな真剣な目で話すようなことだろうか。兄の私が妹の容姿に関し、あれこれ評価するというのも馬鹿みたいだ。私は抵当に聞き流し、会話を打ち切った。私が歩き出すと、妹は大人しくついてきた。
駅の食堂はすでに閉まっていた。帰宅途中、下宿近くのコンビニに寄って夕食を買った。妹は始終黙ってうつむいているか、私をジッと見つめていた。せっかく迎えに行ってやったのに、変なことを言い出したと思ったら黙り込んで鬱陶しいことこの上なかった。わけがわからなかった。
兄妹仲はいい方なのだろう、と思う。しかし、昔はもっとわかりやすかった。人間は誰でも、ずっと同じではいられない。妹はどう変わってしまったのだろうか。やっぱりわからなかった。妹と最後に会ったのは一年前だったが、その前に会ったのはいつだったか・・・。全然会ってなかったから、変わってしまったように感じるだけなのかもしれなかった。今後は近所に住むことになるはずだった。話をする機会も増えるだろう。
初めての一人暮らし、友人ができて生活が安定するまでは心細いこともあるのかもしれない。しばらくは積極的に相手をしてやるのもいいだろう。私はなんて妹思いなのだろうか。我ながら感心な考えだった。そんな私の考えを知らぬ妹は、相変わらず不機嫌そうに黙ったままだった。私も下手に何か言って、妹をこれ以上刺激しないよう黙ったまま歩いた。
在来線に乗り換え、行きと同じく三十分後には下宿に到着した。私の下宿はボロというにはほど遠い、築十年の学生向けアパートだった。築三十余年以上の安下宿がゴロゴロしている中、それらと同価格帯で築十年はなかなかの掘り出し物だった。さすがに新築の下宿にあるようなケーブルテレビや防犯設備、インターネット回線といった付加価値的な設備が無い分見劣りはする。が、そんなものはなくても何とでもなるし、多少の手間と金をかければ同等の設備を手に入れることも可能だった。私の部屋は三階建ての二階で、南向きの角部屋だった。家賃も安く、我ながら運がよかったと思う。
下宿に到着してみれば、一階の廊下に荷物が積み上げられていた。明らかに引っ越し屋だろう人間が数人、ウロウロしていた。こんな時間に引っ越しか。交通渋滞で荷物が遅れたのだろうか。荷物が運び込まれている部屋は空き部屋だった一階の隅だった。私は新入居者の部屋をソッと中を覗いてみた。引っ越し屋相手に何やら指示を出している人影が見えた。それを見て私は思わず声を上げた。後ろから同じように覗き込んでいた妹も小さく声を上げた。その人物は知ってる顔だった。妹の顔つきがまるで別人のように凶悪になった。妹が吐き捨てるように言った。
「何であいつが・・・。」
「・・・水島綾さんだっけか。挨拶していくか。」
「・・・。」
私は開きっぱなしになっているドアをノックした。彼女の人形じみた美しい顔がこちらを振り向いた。彼女も私たちを見て驚いたようだった。彼女の驚きはすぐに別の感情に変わった。それは怒り、なのだろうか。彼女は妹を睨みつけた。妹も彼女を睨み返した。妹と彼女は仲が悪いらしかった。一年前も彼女を見て妹は不機嫌になっていた。私は妹の目の前に鍵を差し出した。
「おい、美樹。おまえは先に部屋に行って、風呂にでも入っとけ。俺もすぐ行くから。部屋は201だ。」
妹は彼女から私に視線を移すと唇をグッと噛んだ。妹は何か言いたそうだった。私が何か言おうとすると、妹は私の手から鍵を奪って階段を駆け上っていった。
鍵を奪う妹の瞳には、涙が浮かんではいなかったか。私はすぐにでも後を追いかけてやりたい気分になった。彼女は妹の駆け上がった階段の上方を睨み続けていたが、ようやく私に視線を向けた。
「えっと、こんばんは・・・水島綾さんですよね。」
「・・・あなたは?」
「はじめまして。西嶋晶と申します。水島さんを一年前の葬儀でお見かけしました。」
「父の葬儀ですね。ということは、私の親族の方ってことですね。親族葬だったから。」
「そうです。上の201に住んでます。」
「そうですか、よろしくお願いします。・・・あの娘のお兄さんなんですね。」
「ええ、美樹の兄です。・・・ちょっと聞いてもいいですか?」
「何でしょう?」
「美樹と何かあったんですか?その・・・あまり仲の良さそうな感じではなかったので・・・。」
「私は・・・。」
「ええ・・・ちょっと睨みが効き過ぎといいますか・・・。」
「そうですか、ごめんなさい。確かに仲はよくありません。ちょっと言いにくいことでして・・・。」
「・・・美樹に聞いても?」
「あの娘が話すなら仕方ないと思います。」
「そうですか・・・まあ、今日は失礼します。」
「・・・。」
「荷物の整理とか力仕事が必要なときは声をかけてください。」
「ありがとうございます。」
「じゃあ、おやすみなさい。あ、晶でいいですよ。妹も同じ西嶋ですからわかりにくいでしょう。」
「なら、そうさせていただきます。おやすみなさい、晶さん。・・・いいお兄さんですね。」
「いえいえ。じゃ、これで。おやすみなさい。」
私は階段を早足で駆け上がり、自分の部屋に飛び込んだ。玄関の左脇がキッチンと洗濯機置き場になっていた。反対側は風呂とトイレだった。奥に磨りガラスのはまった扉があり、そこから先が居住スペースだった。扉の磨りガラスに妹の影が見えた。私は「ただいま」と声をかけて、奥の部屋にソッと踏み込んだ。
妹は部屋のど真ん中に置いてあるコタツの上に突っ伏していた。時折、鼻をすする音としゃっくりのような声がした。やっぱり、妹は泣いていた。私は黙ってキッチンに戻ると、インスタントコーヒーを二人分用意した。電気ポットは便利だ。これさえあれば、いつでもすぐにお茶が飲めた。
人類の英知の決勝とも言える機械の一つに違いない。お湯が使えればコーヒーだけでなく、ラーメンだって三分で用意できる。まてよ?インスタント食品の発明がなければ湯があっても仕方がないのか。電気ポットとインスタント食品はどちらが格上だろうか。あれ?それより先に電気が必要?・・・どれが一番偉大なのだろう。ここで私は我に返った。また、つまらないことを考えてしまった。
私は気を取り直し、お盆にコーヒーと砂糖、スプーン、パックのままの牛乳を乗せた。
いったい二人の間には何があったのだろうか。気にはなるが、今、妹に根掘り葉掘り聞くのも気が引けた。私は部屋に入ると黙ってお盆をコタツの真ん中に置いた。
「先に風呂に入っててくれたらよかったのに。」
「・・・。」
「新幹線は疲れたか?」
「・・・。」
「俺は食事にするから、先に風呂に入れ。」
「・・・。」
「おまえも食べるか?」
「・・・。」
妹の返事はなかった。私はコンビニの袋を開いて中身を取り出した。おにぎりが三つ。ゆで卵とオリーブのサラダが一パック。おにぎりを一つ手に取った。鮭だった。セロファンをめくって一口食べた。まあ、特に感想のない味だった。どこで食べてもこんな感じだろう。コンビニが違っても、同じ工場で作っているのかもしれない。至って平凡な味だった。私は数口で鮭おにぎりを食べきり、二つめに手を伸ばした。手に取った二個目のおにぎりは梅干しだった。
妹が顔を伏せたまま、手を差し出した。欲しいということなのだろう。私はおにぎりをその手に乗せてやる。妹はノロノロと顔を上げた。妹は涙のたまった瞳でジッとおにぎりを見た。
「・・・近いうちに説明するね。今日はカンベン。」
「いつでもいいさ。まあ、食事して風呂に入って今日は寝ようぜ。」
「・・・ねえ・・・。」
「なんだ?」
「私、これキライ。」
私が妹に渡したおにぎりは梅干しだった。酸っぱいものがキライなのは変わらないようだった。変わったところとそうでないところ。ずいぶん変わった気もしたが、妹はやっぱり妹なのだった。私は何となく安心した。
「そんなこといってないで、たまには食ってみろって。」
妹はおにぎりを見つめた。妹は大きく息を吸って背伸びした。そして、おにぎりにかぶりついた。すぐに顔をしかめ、コーヒーで流し込んだ。日本茶の方が良かったかもしれない。
「・・・おにぃちゃん。」
「うん?」
「最悪。」
「そうか。でも、まあ、たまにはいいだろ。」
私はコタツ越しに手を伸ばし妹の頭をなでてやった。妹は涙の跡が残る顔で、うれしそうに笑った。最後に残ったサラダを二人で分けて食べた。食べ終わると妹にゴミの片付けをまかせ、私は布団を敷いた。布団は一組しかなかった。一人はコタツで、もう一人は布団で寝ればいいだろう。
妹を先に風呂に入れ、私は実家に電話をかけた。既に深夜だったが、無事に着いたという連絡は入れておいた方がいいだろう。数度のコールで母が出た。深夜だというのに、両親は揃って連絡を待っていたらしい。妹が無事到着したこと、明日は朝から下宿探しにつきあうことを伝えて電話を切った。
部屋の隅に立てかけてあったノートパソコンを起動し、会社へ、風邪で明日一日休む旨メールを出した。ノートパソコンの電源を落としたところで、妹が風呂から上がってきた。目が少し赤かったが、多少はさっぱりした顔になっていた。
「おさきー。」
「おう。家に連絡しといたぞ。」
「あ、私がすればよかったね。ありがと。」
「おう。さて、俺も入るかな。」
「うん。ねえ、それパソコン?」
「ああ。」
「借りていい?」
「うーん、個人的なデータとかもあるしなぁ・・・ユーザ追加すればいいか。」
私はパソコンを再び起動した。新しいアカウントを作り、妹にはそのユーザでログインさせた。やはり見られたくないファイルというのもあるものだ。慣れた手つきでブラウザを起動した妹は、どうやらこの近辺の賃貸情報が見たかったらしい。なるほど。私は納得すると風呂に向った。
風呂から上がって見れば、妹はそのままコタツで寝てしまっていた。起こすのもかわいそうなので、私は毛布を一枚掛けてやり、自分の寝床に潜り込み、電気を消した。一応お客様には違いない妹がコタツというのもどうかとちょっと思ったが、しかし、まあ、いいだろう。私はお休みなさいを小さな声でつぶやいて目を閉じた。薄暗い闇の中で妹が身じろぎした。起こしてしまっただろうか。こちらの様子を窺う気配がした。妹はコタツから出ると私の布団に潜り込んできた。今起きて何か言うのも億劫だった。
「心配してくれてありがとう、おにぃちゃん。おやすみ。」
耳元で妹のささやき声が聞こえた。私は妹の体温を感じつつ眠りに落ちた。
首の回りに何か生暖かいものがまとわりついていた。あまりの息苦しいさに、私は目を開けた。ジットリと汗をかいていた。目がショボショボした。私は手の甲で目をこすりながら、布団の中から起き上がろうとした。しかし、首にまとわりついているものが、私を引き戻した。それは腕だった。妹の腕だ。
昨日、妹が布団に入ってきたぐらいまでは覚えているのだが、それ以降の記憶がなかった。これは妹であって、見ず知らずの女性ではない。ということは、別に記憶がなくても、それほどの困った問題が起こっているはずもなかった。が、ここまで抱きついて寝ることはないと思う。息苦しい。私は抱き枕ではない。世の中の抱き枕は、こうやって毎日苦労しているのだろう。私は首に掛かっている妹の腕をソッと解き、布団から抜け出した。時間は朝の九時半だった。今日の予定は下宿探しだ。
今から用意して出かけると早くて十時半ごろになるだろうか。私一人ならサッサと用意してもっと早く出発できるかもしれないが、女性の身支度は時間がかかるものだ。ちょっと寝過ぎたかもしれなかった。トイレに行って、シャワーを浴び、歯を洗った。見れば、妹は布団の中で何やらつぶやきながら、未だに夢の中だった。今は私の代わりに枕にしがみついていた。昨日は夜も遅かったし、隣人とのこともあった。疲れているのだろう。
私は妹を放っておいて、パジャマの上にジャケットを引っかけ、コンビニまで朝食を買いに出た。この辺りは住宅街なので、朝の早い時間だと同じような格好の人も多かった。しかし、九時半は決して早い時間ではなかった。二階の廊下から町を見渡せば、既に寝起きでうろつく人は見あたらず、パジャマではうろうろしているのは私だけになりそうだった。階段を下りて、妹の涙の原因である綾さんの部屋の前を通った。
綾さんと妹の間には何があったのだろうか。二人とも多分同じぐらいの年齢だろう。綾さんは妹よりも少し落ち着いた雰囲気だから、いくつか上かもしれなかった。妹は落ち着きないので年齢より若く見えるのかもしれなかった。綾さんは水島さんという、うちとはあまり縁のない親戚の養子だった。私にとっては、まったく無縁の親戚だった。母は水島さんにお世話になったことがあると言っていた。となると、母に聞けば何かわかるだろう。しかし、妹が説明してくれる気になるまで放っておいた方がいいかもしれない。何か知ってしまうとギクシャクしてしまって、気分のよくない生活を送らなければならなくなってしまう気がした。近所に妹も綾さんも住んでる状態で、全員が互いにギクシャクするのはいかにも面倒だった。そう考えると、別に私自身知らなくていい気がしてきた。あれこれ考えながら歩いていると、コンビニ到着した。
コンビニではサンドイッチと果物を買った。ここはローソンやセブンイレブンといった有名どころではなかった。が、よくあるコンビニ弁当やおにぎりといった製品以外に生の野菜や果物、肉や卵なども置いてあった。酒も置いてあった。昔は小さなスーパーかなにかだったのかもしれない。コンビニという店は基本的に定価なのでお得感はない。が、二十四時間幅広い製品が購入できるのは魅力だった。だいたい、会社から帰ってくるときには商店街は閉まっていて、コンビにしか開いていなかった。
家から近いコンビニは、今回のようにちょっとお客さんが来ているときや、急いでいるときにもうってつけだった。夜を徹して遊んだ学生時代、深夜に鍋の追加の材料を買いに行ったこともあった。あのときのメンバーはほとんどこの地を去っていった。
私が買い物を終え、下宿に帰り着くと、妹は起き出していた。風呂場の前に服が脱ぎ散らかしてあった。片付けようかと思ったが、衣類に混じって下着が見えたので止めた。第一、人が入っている風呂場の前でうろうろするのもどうだろう。私は例によって文明の利器である電気ポットから湯を使い、インスタントコーヒーを用意した。我が家の食生活の重要な部分を電気ポットが支えていた。これさえあればお茶も煎れられるし、カップ麺だって調理できた。パスタをゆでるときも、電気ポットの湯を使えば水から沸騰させるよりも早く湯を沸かすことができた。ちなみにカップ麺の容器に湯を注ぐことを、カップ麺を調理するというのかは不明だった。まあ、便利極まりない電気ポットの最大の長所は安全なことだろう。私は果物の皮をむき、サンドイッチと一緒に皿に盛った。二人分の食事を用意し、布団を片付け、コタツを部屋の中央に引っ張ってきた。私が作業を終え、コーヒーを飲みながら待っていると、すぐに妹が風呂場から出てきた。
妹はバスタオルを体に巻いただけの格好でこちらの部屋までやってきた。私はガックリと肩を落とした。
「おい、なんて格好をしてるんだ。服を着てからこっちに来い。」
「いいじゃない、家族なんだし。ふふん。どう?結構格好いいからだでしょ?」
妹はグッと上半身を反らし、ポーズをとった。まあ、年相応の発育だった。そこそこバランスはいいと思うが・・・。私に妹を見本にして女性の体型をあれこれいう趣味はなかった。今回のバスタオルでポーズをとる妹に対する感想としては、なんだかシャンプーやタオルのCMみたいだ、というのが最終的な結論だった。そういえば、一世を風靡したティモテはまだあるのだろうか・・・。最近、売り場で見かけたことはなかった。
「アホか。まだ寒いんだし、とっとと服を着ろ。」
「はーい。・・・ここで着替えてあげようか?サービス。」
「アホか、そんなサービスはいらん。服持って行って向こうで着替えろ・・・って、服なんて持ってきてたっけ?」
「下着しかもってきてないから、貸して。」
「ああ?」
「おにぃちゃんの服、貸して。」
下着を持っているだけマシか。私は大きくため息をついて立ち上がると、押し入れを開けた。
押し入れを引っかき回し、ジーンズとYシャツを妹に手渡した。サイズが大きいかもしれないが、これなら女性が着てもあまり違和感がなさそうだった。妹はそれを受け取ると部屋から出て行った。ここで着替え始めたらどうしようかと心配したが、さすがにそこまでの悪ふざけはしないようだ。妹は、いわゆるブラコンというやつだろうか。それとも単にはしゃいでいるだけか。そんなに気に入られるようなことをした覚えもないし・・・。世の中には妹という存在そのものに、あこがれや劣情を抱く連中もいるらしい。妹だったら何でもいいという意味不明なことを言う連中すらいるとかいないとか。まあ、妹は妹なりにかわいいのだが、いわゆるカノジョがかわいいのとはまったく別物だった。ペットがかわいいというのとも違った。妹もあくまで家族として、私になついてくれているのがかわいいのだ。妹が、トチ狂った挙げ句に家族としてわきまえるべき枠を逸脱してこないことを願うばかりだった。昔から、妹はひどく真剣で思い詰めた瞳を私に向けることがあった。そういうときは、なんとなく気味悪く思ったものだった。妹が本気で家族の枠を逸脱しようなんて考えを持っているのではないか、とか不安に感じるのだった。妹はすぐに着替え終わり、こちらに戻ってくる。私は変な方に向き始めた頭を切り換えた。やはり、サイズが合っていなかった。大きなサイズを着崩すにしても少し大きすぎる。が、そういうファッションと見えなくもないだろう。私は自分の服の選択が間違っていなかったことにとりあえず満足すると、コタツの上で放置されていた朝食に手を伸ばした。妹も用意された朝食を食べはじめた。かなりご機嫌のようだった。妹はニコニコしながらくだらないことをしゃべり続けていた。そういえば、今日の仕事はキャンセルしたから、下宿探しに付き合えるということをいっていなかった気がする。私は妹のおしゃべりを遮った。
「今日は仕事を休んだから、おまえの下宿探しにつきあうぞ。」
「え!昨日は私より大事だとかいってたじゃない。」
「気が変わった。」
「のんびりしてると思ったら、そういうことだったのね。・・・でも、いいの?」
「おう、もう休む連絡はしたからな。食べたら出かけるぞ。」
「わぁい!」
妹はこれ以上ないぐらいにうれしそうにほほえんだ。飛びついてこなかったのが不思議なぐらいのはしゃぎようだった。
昨日の今日だし、かまってやれば多少は気も晴れるだろう。今までほったらかしだった分も含め、妹の面倒をしばらく見てやろう。私は妹の楽しそうな様子に満足しつつ食事を食べ終わった。なんだかんだで妹の相手をしていると満足感が味わえた。
時間は十一時になっていた。昼食をきっちり昼頃にとるには、遅い時間に朝食を食べてしまった。しかし、朝食昼食兼用と言うには少々軽い食事である。まあ、小腹が空いたらどこかで買い食いするか、喫茶店で軽食を食べるかすればいい。私たちは急いで出かける支度を済ませると、一路不動産屋へ向かった。この近場がいいだろう。この辺りは下宿の数も多いし、大学に通うのも近く、便利な地域だった。ここに住んで大学に通った私が言うのだから間違いない。ということは、私が今の下宿を見つけた不動産屋に行ってみるとしよう。ここから不動産屋まで徒歩五分だ。大はしゃぎで必要以上にくっついて歩こうとする妹が私の腕にしがみつこうとするのを振り払いつつ、私は不動産屋に着く前に家賃と場所の希望を聞いておくことにした。
「予算は決めてるのか?」
「予算?」
「家賃だな。安くても新しくてきれいなところもあるし、高くても汚いところもある。駅から近いとか、二階より上だとか、角部屋だとか・・・。」
「おにぃちゃんの下宿は空いてないの?」
「うーん、空き部屋は綾さんの越してきた部屋が最後だったな。」
「・・・。」
妹は唇をギュッと噛み、うつむき、立ち止まってしまった。しまった。せっかく気分よくしていた妹に、言うべきではない名前だった。暗い顔だった。昨日の夜のように泣き出されてはかなわない。
「悪い。」
「・・・うん・・・。下宿決まって、落ち着いたら話すよ。」
「わかった。」
妹は私の腕に抱きついて、ジッと私を見つめた。どこまでも暗い表情だった。表情も暗いが、目が一番暗い。実際に瞳に変化があるわけではないが、どんよりと濁っているイメージだった。なんだかさっきみたいに振り払うことが出来なくなってしまった。私はやんわりと妹から腕を引き抜こうとした。しかし、抜けなかった。妹は力を込めてしがみついた。強引に引き抜いた。私はため息をつき、妹の手を取った。手をつないで歩くぐらいならサービスしようじゃないか。しかし、腕を組んで歩くのはごめん被りたかった。今の妹は、たまに気味が悪いと感じる妹になっていたからだ。
「行くぞ。」
「・・・うん。」
妹はつないだ手をジッと真剣な目で見つめてうなずいた。
やれやれだ。私は空いた手で妹の頭を撫でた。少しだけ妹の表情が和らいだ。
「で、話の続きだが、予算と場所の希望はあるのか?」
「あ、うん。月五万円ぐらいまでにしてくれって。」
「なるほど・・・。結構高いな。ま、女の子ならそんなもんなのかな。」
「お父さんはかなり心配そうだったよ。」
「なるほど。で、場所は?大学から近すぎても遠すぎても微妙なんだぞ。」
「ふーん。なんで?」
私は実例を挙げ、遠すぎても近すぎても下宿というものはダメであることを説明した。近いとたまり場になって困ったことになるし、遠いと面倒になって困ったことになる。他にもいろいろ・・・。妹はいちいち感心してくれた。とっくの昔に不動産屋に到着していたが、一通りのレクチャーを店先で終えてから中に入ることにした。雑居ビル一階にある不動産屋の玄関は全面ガラス張りで、一面におすすめ物件の概要を印刷したものが貼り付けてあった。敷金の額や家賃、間取りや設備の説明・・・。私たちは端から順にざっと目を通した。その様子が見えたのだろう、スポーツ刈りに真新しいスーツの若い男性が中から出てきた。去年、契約の更新に来たときには見なかった顔だった。新入社員だろうか。
「こんにちは。どのような物件をお探しですか?」
「あ、大学生向けの下宿を探してるんですが。」
「なるほど、お部屋探しは、お客様ですか?彼女さんですか?」
男性は妹の方に視線を向けた。妹は私の彼女と間違えられたのがかなり嬉しかったようだった。ここぞとばかりに私にしなだれかかってきた。私はそれを押し戻しつつ、すぐさま男に返事を返した。調子に乗った妹が何か変なことを言う前に正確な情報を男に提供した方がいいだろう。この店には初めてここにきたときから世話になっている顔見知りの店員がいた。変な噂でも立ったら嫌だった。
「こいつは妹です。」
「あ、妹さんでしたか。申し訳ありません。」
妹はパンパンにむくれ、私に抱きついてグリグリと体を押しつけてきた。無視。とりあえず、変な妹は放っておいて下宿をサッサと決めてしまう方がいいかもしれない。まあ、妹の下宿なので最終的には妹に決めさせるべきなのだろうが、この調子では私が持たなかった。
「で、こいつが**大学に通うので適当な下宿を・・・。」
「そうですねぇ・・・ご予算は?」
「五万円ぐらいまでで・・・。」
「五万円ですか。お二人が暮らせる広さで五万円は少々・・・。まあ、探してみましょう。」
「はあ?二人?」
「あ、妹さんとご一緒では?」
「違います。」
「失礼いたしました。とにかく、中へどうぞ。」
こいつ大丈夫か。
妹も不安だが、この不動産屋の男も何か間違っている。それとも妹と一緒に住む下宿というのはよくあることなのだろうか。謎だった。私は脱力感にさいなまれつつも男に続いて不動産屋の扉をくぐった。店内は奥の壁際にパソコンが数台並び、真ん中辺りに机が並べてあった。パソコンで何やら作業していた女性がこちらに気がつき、手を振りながらやってきた。彼女は片足が不自由で少し引きずって歩いた。片手も思うように動かせないようだった。昔事故にあったという話を聞いた覚えがあった。そして、彼女は外人だ。髪は金髪で、青い瞳をしていた。ゆったりとした布地のワンピースを着ている。アジアンテイストというのだろうか、どこかの民族衣装かもしれない。相変わらず、国籍不明で意味不明な服装だった。前に会ったときも訳のわからない服を着ていた。そのとき、和服だと言い張っていたが、あれは和服とは言い難い代物だった。ということは、この謎の国籍を持つ服も本来とは違ったものになり果てている可能性もあった。いったいどこで購入しているのだろうか。無国籍創作料理店が服屋になったらこういう服を売り始めるのではないだろうか。そんな服だった。手が不自由そうなので、自分で作っているわけではないのだろうが・・・。彼女の日本語は流ちょうなので会話の心配はなかった。いざとなれば、私は片言のサムライイングリッシュを操ることもできたが、できれば日本語でのやりとりの方がありがたかった。この不動産屋では、彼女は外国人学生の下宿探しなども担当しているらしい。
「やほー、晶クン。」
「こんにちは、サンフラワさん。相変わらず、変わった服装ですね。」
「いいでしょ?。大陸風っていうのかな?」
「・・・なるほど。まあ、詳しくはノーコメントで。」
「いつもほめてくれないわねー。ま、いいけど。で、今日は?」
「こいつの下宿探しに・・・。」
「その娘はいつもの彼女じゃないわね。どなたかしら。」
「こいつは美樹。妹です。」
「あらあら、可愛らしい妹さんね。はじめまして、私は松田サンフラワです。」
「は、はじめまして。西嶋美樹です。」
サンフラワさんは何となく頼りない男のかわりに、妹の下宿探しの担当になってくれることになった。狭い不動産屋を出て向かいの喫茶店に移動する。三人で一番奥のテーブルに陣取る。妹の希望にあった下宿を検索してくれるらしい。私と妹はサンフラワさんの持ってきたパソコンの画面をのぞき込んだ。
予算は五万円前後。大学との距離は私の下宿と同じぐらい。エアコン完備。バストイレは別がいい。オートロックに生体認証キー、ケーブルテレビに高速インターネット・・・。妹は思いつく限りのオプションを希望する。サンフラワさんは、何も言わなくても、私が妹と同居する部屋を探そうとはしなかった。私は苦笑しつつ結果を見守ることにした。妹の妄想がふくらむ度に、サンフラワさんもだんだんと困った顔になってきた。さて、最後の条件が決まりいよいよ検索だった。結果はゼロ件。試しに金額の制限を外すと月八万五千円からの物件が一つだけでてきた。それでも安いかもしれない。やはり五万円では何でもかんでもアリというのは無理なのだろう。私がそこに引っ越してやろうかと思ったが、どうやら女性限定の新築物件らしかった。残念だ。
「お前は欲張りすぎだって。」
「でもぉ・・・。」
「そうねぇ・・・。とりあえず、予算は決まってるから、他のオプションを外すかランクを落としてみましょう。ね?」
「うーん・・・とりあえず、広さを狭くしてみようかな。」
「狭い方がいいぞ。一人で暮らすんだから、広すぎると掃除とか面倒だぞ・・・。」
「でも、狭すぎるのもどうかと思うわよ。」
そうして、さんざん検索した挙げ句、ようやく五件の下宿が見つかった。やたらと時間がかかった。すでに時間は十三時過ぎだった。二時間近く検索していた計算になる。サンフラワさん曰く、多すぎても回りきれないので、この五件から決めてしまうとのことだった。五件の物件のどれもにどうしても不満があればよそを回ることになるかもしれない。それについては私も妹も異議はなかった。サンフラワさんは大きく背伸びをして、携帯電話を取り出した。どうやら今検索できた物件の仮押さえをしてくれているようだった。
「さて、ちょっと休憩して食事にしましょう。食事が終わったら歩いて、今検索したところを見て回りましょうか。」
「そうですね。」
「どんなところかなぁ・・・楽しみ。」
「うらはさん、食事メニューちょうだい。」
サンフラワさんはカウンターにいる若い女性に声をかけた。今気がついたのだが、ここはいわゆるメイド喫茶というやつだろうか、うらはと呼ばれた店員はメイド服を着ていた。しかし、テレビで見るチャラチャラした雰囲気のメイド喫茶とは違い、どっしりと落ち着いた雰囲気だった。いかにもそれっぽいオーラを発している変な客もいなかった。雰囲気だけではなく机や椅子も分厚い木製でどっしりとしていた。アンティークというわけではなさそうだが、金はかかっていそうだった。たぶん元々こういう制服を採用している普通の喫茶店なのだろう。
うらはさんはカウンターの奥から食事のメニューを三人分持ってきてくれた。大きくて真っ白なエプロンにはトウモロコシのマークの刺繍がしてあった。メニューにはカレーやサンドイッチ、ピラフといった各種軽食が並んでいた。価格は喫茶店価格だった。見本の写真から受ける印象より百円から二百円ぐらい高い価格帯の値段なのだ。私は無難にカレーを注文した。妹は辛いのが苦手なのでチーズサンドイッチ。サンフラワさんはミートスパゲティだった。うらはさんは皆の注文をメモすると、カウンターの奥に引っ込んだ。サンフラワさんは今のうちにと、事務所の方へ鍵や書類を取りに戻った。私と妹が喫茶店に残された。うらはさんは食パンを切り、そこへチーズと野菜を挟み、トースターで焦げ目を入れていた。サンドイッチはすぐに完成した。他の食事のメニューは冷凍食品メインらしく、特に調理をしている気配はなかった。何かのパッケージを開け、中身を皿に盛りつけ、電子レンジにつっこむのが見えた。この店で私は電子レンジが音楽を奏でるというのを初めて知った。なるほど。携帯電話ですら様々な音楽をならすことができる世の中だった。電子レンジや電気ポット、キッチンタイマーが音楽を鳴らしたとしても不思議ではない。どうやら知らずのうちに、私の家の機械は時代遅れの代物となっているようだった。私は興味津々でうらはさんの調理風景を眺めた。うらはさんはかなり地味だが美人といってもいい風貌だった。店もうらはさんも落ち着いた雰囲気で、ゆっくりするにはいい喫茶店かもしれない。家から近いし、また来てみよう。ぼんやりしていると、妹が机の下で私の足を蹴ってきた。何事かと妹をみれば不機嫌そうだった。
「ねえ、おにぃちゃんはああいうのが好みなの?」
「いいだろ別に。」
「・・・よくないよ・・・。」
あの目だった。変に真剣な瞳。
「なあ・・・お前、たまにそんな目で俺を見るな。なんなんだ?」
「・・・。」
「何か言いたいことがあるのか?」
「聞いてくれるの?」
「聞くだけなら、な。」
「・・・じゃあ、言うね。」
「おう。」
「私ね。おにぃちゃんのことス・・・。」
「待った!!」
やばい雰囲気だった。私は何とかギリギリで妹の台詞を遮った。ここは聞いてしまう前に、私の妹に対する立場をはっきりさせた方がいいのかもしれない。幸い、サンフラワさんは席を外していた。うらはさんは調理中だった。かといって、二人きりというには開けた場所だった。
これは二人きりで真剣に話をするのが正しいのかもしれないが、こういう場所の方が双方ともに分別ある会話ができるかもしれない。下手に二人きりで話をして、逆ギレの挙げ句、刺されるなんてこともあり得ないとはいえなかった。最近は、そういうのが流行だから・・・。
「先に言っておく。」
「何?」
「俺はおまえが嫌いじゃないが、どうがんばっても、おまえを妹以上にはみられんからな。」
「・・・。」
「好いてくれるのはうれしいけど、頼むから限度を超えないでくれ。」
「・・・好きなんだもん・・・ダメ?」
「ダメだ。」
「・・・血がつながってなくてもダメ?」
「はあ?俺はおまえが産まれたところみてるぞ。」
「うん・・・つながってる。」
「・・・。」
妹は黙ってしまった。私も黙った。暗い。今になって店内にクラシックが流れていることに気がついた。さりげない音量だった。客がもっと増えたらボリュームも上がるのだろう。もしかしたら、私たちの声が他のテーブルに聞こえにくいように、うらはさんが音楽を流してくれたのかもしれなかった。やがて、妹の唇がピクリと動いた。そして、そこから小さくつぶやくような声が漏れた。
「・・・うん、私、バカだね。バカだ。」
「まあ、なんだ。ちょっとぐらい甘えるのはかまわないけど、な。」
「・・・わかった。」
「家族としてなら、甘えてくれていい。」
「・・・うん、でも・・・。」
「なんだ?」
「・・・私、何でこうなっちゃったんだろうね。」
「しるか。こっちが聞きたいぜ。」
「うん。バカだからかな・・・。」
妹は引きつったような笑顔で言った。私は妹の頭をポンポンとたたいた。何となく居心地が悪いが、私はずいぶんとスッキリした。妹はまだ何か納得し切れていないようだったが、徐々に納得してくれるだろう。是非とも納得してほしい。私は喫茶店の入り口付近でこちらの様子をうかがっているサンフラワさんに軽くお辞儀をした。どうやら、こちらの様子を見て会話が済むまで待ってくれていたようだった。うらはさんも同じだったらしく、サンフラワさんが席に着くとすぐに料理が運ばれてきた。
ようやく食事が済んで、いよいよ下宿の下見に出発だった。検索できたところのうち一件は、すでに契約が成立してしまっていた。その他事情によりもう一件が下見不可能。結果として、三件の物件に下見に行くことになった。三件はどこもここからかなり近いようだった。喫茶の会計はサンフラワさんがおごってくれた。私は食費に困っているわけでもないので払おうかと思ったのだが、契約が取れたら別途手当が出るらしく、サンフラワさんのお客様サービスということになってしまった。
さて、どんな下宿なのだろうか。妹が少しでも楽しく暮らすことのできる環境だといいのだが・・・。私は妹の手を引いてサンフラワさんの後について歩き出した。
一件目の物件は私の下宿の斜め向かいのワンルームだった。五階建ての一階だ。一階の一番奥だ。扉の鍵は一つ。少々不用心かもしれない。サンフラワさんが鍵を開けてくれたので、中の様子を見せてもらう。狭いというのが第一の感想だろう。この段階で、すでに妹のお気に召さないようだ。とりあえず、ユニットバスや収納スペースを確認する。外に面した窓のガラスも金網が入っているわけではなく、普通のガラスがはまっている。ガラスを破らなくても、窓枠にガラスをはめ込んでいる樹脂が風化し、ボロボロになっている。少しがんばれば窓ガラスを窓枠から外せそうだ。若い女性が一人暮らしをする物件ではないのかもしれない。サンフラワさんはざっと見終わった後、私たちに向かって肩をすくめてみせる。お勧めではないということらしい。サンフラワさんは元通り鍵を閉める。我々は一件目の物件を後にし、二件目を目指す。二件目は私の下宿よりもずっと大学よりだ。最近建て直しがあったらしく、ピカピカで近代的な十階建てだ。部屋は二階の角部屋だ。エレベーターまである。玄関の鍵は一つだが何やら複雑な形状の鍵だ。泥棒の七つ道具とかを使っても、こじ開けにくい作りの鍵らしい。部屋は広くはないが狭くもない。ベランダのガラスはしっかりと金網が入っている。残念ながら風呂とトイレが一緒になっているユニットバスだが、仕方ないだろう。エアコンも完備されている。気になる価格は、なんとか予算ギリギリだ。一通り見て次へ向かう。結構あわただしい。
最後は再び私の下宿の近辺だった。ところが、最後の三件目は普通の家なのだ。いや、普通というには大きすぎる。大邸宅というには小さいイメージだが、大邸宅と呼んでしまってもかまわないだろう。お屋敷だ。赤煉瓦の塀にツタが絡みつき、古めかしい感じがする。玄関は巨大で重厚な鉄板だ。凝った彫刻がなされている。大きすぎて何が彫刻されているのかわからない。
扉は観音開きかと思ったのだが、一枚の鉄板で継ぎ目らしきものはない。ここまで大きな扉を片開きにするというのも何となく違和感がある。スライド式の可能性もあるだろう。あるいは飾りかもしれない。巨大な鉄板扉の横にはそれをそのまま小さくしたような扉がある。この大きさなら片開きでもスライド式でも問題ないだろう。普段の生活では、巨大な扉の開閉は手間なのでここから出入りするのだろう。小さな扉の側には、表札とインターホンがついている。表札にはMS明朝のようにおもしろみの感じられない文字で木谷と書かれている。前々から、私はこの家があるのは知っていた。しかし、じっくり見たこともなかったし、下宿業を営んでいることなど全然知らなかった。インターホンを押し、サンフラワさんが下見でやってきた旨を伝える。ビーッという音ともに巨大な鉄扉が動き出す。スライド式のようだ。・・・なんと、扉はゆっくりと地面に沈み始めた。三十秒ほどかけて扉はすっかり地面に沈んでしまう。サンフラワさんはニヤニヤしながら扉のあった場所をまたぎ、敷地内に踏み込む。私と妹はその様子を見ながら、恐る恐るのぞき込む。サンフラワさんは相変わらずニヤニヤ笑いのまま言う。
「驚いたでしょ?みんな驚くのよ。だから、わざわざこっちを開けてもらったの。」
「・・・驚きました。」
「ウン、ビックリした。」
「まあ、余興よ。下宿はあっち。」
今まで扉の沈んだ足下ばかりに注意がいっていたのだが、見上げてみると古びたサナトリウムといった風情の建物が建っている。一言で言うなれば白亜の洋館。門から玄関まで砂利道が洋館まで延びている。所々に大きな木が植わっており、涼しげな木陰ができている。遠くからはきれいだった洋館を間近でみると、ペンキが所々反り返ってはげている。地上三階建てのようだ。地下は外からだとわからない。サンフラワさんは扉が開けっぱなしになっている玄関をくぐる。私たちも後に続く。振り返ると地面に消えた扉が再び伸び上がり、外界とこの空間を遮断していた。
玄関は広く、ホールになっている。ホールの左右には二階と三階へ続く螺旋階段が緩い弧を描いている。ホールの奥には扉があり、これまたあけっぱなしになっている。扉から薄暗い廊下が見える。ホールを照らす照明は巨大で時代を感じさせるシャンデリアだ。古くさい雰囲気のシャンデリアだが、ランプやロウソクではなく、電気の照明だ。ホールを少し見上げた真正面には肖像画が架かっている。青いドレスを着た少女だ。少し地味だが、将来は美人になることを約束されたような容貌だ。どこかでみた気がする。有名な絵あるいは人物なのかもしれない。絵をじっと見ていると、ホールの奥の廊下を通り、一人の老人が現れサンフラワさんに挨拶をする。
「こんにちは、サンフラワさん。この方々?」
「こんにちは、木谷さん。下宿を探しているのは妹さんです。」
「そう。部屋は何個も開いるわ。」
「案内していただけますか。」
「もちろん。暇ですからね。」
老人の注意が我々の方へ向く。私は自己紹介する。
「はじめまして、下宿の下見をしてる西嶋晶と申します。こいつは妹の美樹です。」
「はじめまして、美樹です。」
「あらあら、ご兄妹なんですね。私は木谷さよと申します。孫と二人で暮らすには広すぎるし、寂しいから余った部屋を貸してるの。」
「そうなんですか。」
「ええ、そうなのよ。さあ、木谷荘を案内しましょう。」
この建物は木谷荘という名前らしい。案内してくれる部屋は木谷荘の左手側のようだ。木谷さんの足腰は丈夫なようで、さよさんは我々の先頭に立って、スタスタと歩き出す。廊下は薄暗い。ポツリポツリと電球に黒い雨傘がついたような照明が灯っている。傘の上には小さなつまみがついている。どうやら電球のスイッチのようだ。夜になったら一個ずつ消して回るのだろうか。さよさんは廊下の突き当たりにある部屋の前までいくと、ポケットを探る。すぐにかぎ束を取り出すと、鍵穴に差し込んだ。部屋は廊下の片側にしかないようだ。
「さあ、どうぞ。」
さよさんが扉を開け、照明をつける。私と妹はおそるおそるのぞき込む。建物の外見通り、部屋の中はくたびれ果て、時代遅れのサナトリウムかと思いきや結構現代的だ。私と妹は思わず顔をお見合わせる。私は思わずつぶやいてしまう。
「い、イメージと違うな・・・。」
「そうね・・・くたびれた結核療養所みたいな部屋かと思ってたんだけど・・・。」
妹も同じことを考えていたらしい。血のなせる技か。いや、誰でもそう思うだろう。
よさんは苦笑いを浮かべながら説明してくれる。
「そうね。昔はボロボロだったわよ。でも、孫が古いままだと誰も借りてくれないからっていろいろと壁を塗ったりしてくれたのよ。珪藻土っていうのかしら?袋に入った粉を水で溶いて一週間ぐらいかけて全部の部屋をきれいにしてくれたの。」
そう、部屋の壁は真っ白の紙粘土のような素材で塗られ、廊下の照明とはまったく異なった現代的な蛍光灯が室内を照らしている。最近どこかでみた雰囲気の部屋だ。どこだったか。まあ、それはいいとして、部屋の隅にはケーブルテレビとインターネットの接続口がきているようだ。部屋に入ってすぐの両脇にはシャワーとトイレが一緒になったコンパクトなユニットバスとIHの調理器具と流し台が据えてある。それでもなおそこそこの広さの部屋だ。部屋は角部屋で、南側と東側は大きな出窓になっている。冷暖房は中央管理らしくダクトの口が天井についている。さよさんの説明によると建物の右手側に共同の浴場や台所があり、ゆっくりお風呂を使ったり、調理もできるらしい。ケーブルテレビとインターネットの口はちゃんと使える状態にあるらしい。家賃を聞いてみると他の物件より安い。さよさんの説明によると、部屋の防音については隣の部屋の音が筒抜けに聞こえて問題ありらしい。が、現在は一部屋おきに貸しているので実質的には問題ないらしい。部屋がいっぱいいっぱいになるまで借り手を捜すようなことはしない予定とも教えてくれた。木谷荘の下見を終えた私たちはようやく喫茶店に戻る。あれやこれやで三時間ぐらいうろうろしていたようだ。
「というわけで、ごくろうさまでした。気に入った物件はあったかしら?」
「一つ目は、女性の一人暮らし向きではないみたいだったし。うーん、俺なら二つ目に行った新築かな。三つ目も悪くない。」
「そうねぇ・・・。私も一つ目は却下。二つ目も三つ目もそれぞれ難ありかな。」
「他も探してみましょうか?」
「俺は早めに決めてほしいけどな。」
「なによぅ、私と一緒は嫌なの?」
「アホか。」
「でも、まあ、早めに決めたいのは確か。というわけで・・・。」
「というわけで?」
「三つ目にしようかなぁ、と。」
「三つ目・・・木谷荘か。」
「まあ、ちょっと落ち着いて暮らすにはいいと思うしね。」
「わかったわ。もう連絡してしまってもいいかしら?」
「どうする?今日はいったん帰ってゆっくり考えるか?」
「いえ、今、契約します。」
妹はなんだかんだでサナトリウムが気に入ったようだ。サンフラワさんはすぐさま不動産屋から書類を持ってくる。その書類に妹が必要事項を書き加えていくのを、私はボーっと眺める。さすがに三時間立ちっぱなし歩きっぱなしだったので足にきた。カクカクする。社会人になってからというもの、通勤以外あんまり歩きもしない。かなり弱っているようだ。
かなり弱っているようだ。不意に視界にコーヒーカップが現れる。
「お疲れですか?」
「はは、ちょっと。どうもありがとう。」
「お礼はサンフラワさんに。妹さんの下宿、決まったようですね。」
「ええ、ちょっといったところの木谷荘に。」
「え、木谷荘ですか?」
「はい・・・なにか?」
「い、いえ・・・。」
向かい側に座っていたサンフラワさんが会話に加わる。妹はこちらをちらちらと眺めながらも、書類に集中しているようだ。
「晶クンは、この娘の名前、覚えてる?」
「え?確か・・・うらはさん。」
「何うらはさん?」
「えっと・・・。」
「木谷うらは、よ。」
「木谷うらはさん・・・木谷・・・もしかして、木谷さよさんの・・・。」
「そう、お孫さんよ。ねぇ、うらはさん?」
「ええ、さよは私の祖母です。」
「なるほど。木谷荘の部屋って、この喫茶店とおそろいにだったんですね。」
「ええ、ここも私が自分でリフォームしたんです。」
「うらはさんは、手先が器用なのよね。」
「いえ、それほど大層なことでもないんです。壁を塗ったり、壁紙を貼るぐらいなら最近素人でも簡単にできる製品があるんですよ。」
「そういえばテレビとかでもそういうのやってますね。」
「でしょう?さて、ごゆっくり。」
うらはさんはカウンターの方に引っ込んでなにやら仕事を始める。妹の手元をのぞき込むとちょうど書き終わるところだった。
「よし、完成。」
「はい、お疲れ様。鍵は今から店に帰ってから渡します。引っ越しの日付は前もってさよさんに連絡してね。」
「わかりました。おにぃちゃん、もう二・三日よろしく。」
「へえへえ。」
私たちは不動産屋でサンフラワさんから鍵をもらいそのまま帰宅する。中途半端な時間だ。夕方にはまだ早いし、今からどこかに出かけるには少々遅い。コタツに座って一服する。テレビをつける。画面には何処かを旅する列車の風景が映っている。外国だろうか。真っ青な海を車窓から見渡せる。かなり疲れているようだ。ぼんやりとテレビを眺める。もうすぐしたら食事の時間だが何となく億劫だ。風呂に入るのも面倒な気分である。妹も同じようにぼんやりしているのだろうか。私は妹に話しかける。
「なあ、食事どうしよう。」
「・・・。」
もう一度、同じことを尋ねる。しかし、妹からの返事はない。私はだらけた体をグイッと起こし、妹の方を確認する。妹はこたつの上に突っ伏して寝ているようだった。妹の肩が規則正しく上下している。私は押し入れからタオルケットを取り出すと妹にかけてやる。立ったついでに夕食をコンビニに買いに行くことにした。このままダラダラしてしまうと、明日まで動きたくなくなってしまいそうだ。私は鍵と財布だけ持って玄関の扉を開ける。
「いたた!」
扉を開けた途端にゴンという音がする。扉の前にだれかいたようだ。私はあわてて扉の隙間から外を確認する。そこには手首を押さえた綾さんが涙目で立っていた。何か煮物のようなものが入ったタッパが彼女の足下に転がっている。
「す、すいません。大丈夫ですか?」
「ちょっと、手を打ってしまいました。」
「ごめんなさい。湿布でももてきます。」
「いえ、たぶん大丈夫ですから。それよりもこれを。」
綾さんは足下に落ちていたタッパを拾うと私に差し出した。
「これは?」
「私が作った煮物です。作り過ぎちゃったので差し入れです。」
「あ、どうもすみません。」
「いえいえ、妹さんにもよろしく。では、さようなら。」
私はタッパを受け取るとさよならを言って、綾さんの背中を見送る。タッパの中には多めに煮物が入っている。ご飯があればこれだけで十分食事になりそうだ。私、タッパをキッチンに置き、予定通りコンビニに向かう。コンビニでご飯と野菜、ヨーグルトを買う。これに煮物で夕食は問題なかろう。会計を済ませて家に戻ると、妹の姿がコタツにない。シャワーの音がしているからシャワーを浴びているのだろう。今月の光熱費が何となく心配になってしまう。私はタッパの中を大きめの皿に移し、お茶をいれる。食事をコタツの上に並べて妹を待つ。
シャワーからでた妹は私のパジャマのシャツだけを着ていた。大きめでタブタブしたシャツの裾がミニスカートみたい・・・というよりも下着が見えているような状態だ。昨日のバスタオルだけに引き続き何という格好をするんだろう。私はもはや何も言う気力もわかず放っておくことにする。すぐに自分の下宿に引っ込んでくれるだろう。私はため息をつきつつ、食事を食べ始めた。妹も向かい側に座り、箸を手にとる。妹も私もまずはじめに煮物を食べる。
「あ、おいしい。コンビニでこんなの売ってるんだ?」
「確かにうまいね。綾さんが作って、お前が寝てる間に持ってきてくれたんだよ。」
「えっ?」
妹の笑みが引きつる。いわない方がよかったかもしれないと思ったときにはすでに遅かった。妹は無言で立ち上がるとコタツを蹴り倒し、私が止める間もなく玄関から外に飛び出していった。食事がそこら中に散乱し、皿が割れる。私はそれらを放っておいて妹を追いかける。
しかし、すでに妹の姿はどこにも見あたらない。どこまで行ってしまったのだろう。しかも、あんな格好で。私は家の周りを急ぎ足で一周する。妹の姿はない。近くの派出所があったのを思い出し、駆け足でそこへ向かう。派出所には巡査が一人。何か事務をしている。駆け込んできた私を見て一瞬驚いた表情をした巡査だったが、事情を説明すると一緒に探してくれることになった。警察官はあまり関わり合いになりたくない職業だ。が、こういうときにはなんだかんだで頼りになる。ちなみに私の警察官に対する認識はこうだ。警察官・・・警官とは無実の人を国家権力という力の前に屈服させ、暴力をふるい正義の使者のふりをする凶悪な集団だ。別に私は反体制の使途というわけではないのだが、何となく警官を避けてしまうのだ。道を歩いていて向こうから警官がきたら、どこへ続くのかも知らない路地に入ってしまう。彼らに顔を見られたら最後、何かあれば引っ張られ乱暴される・・・。もちろん、妄想だ。すべての警官がダーティーハリーや鷹山や大下のようではないのだ。しかし、本質的に彼らはそんな連中ではないだろうか。だが、困ったときにはこうやって頼ってしまう。我ながら優柔不断だ。警官は私の心の内など知る由もなく、深刻そうな面持ちで私が説明する妹の特徴などを手帳にメモしている。手帳!!警察手帳だ。この手帳をかざすだけで、我々一般人は・・・って、もうこの辺で止めておこう。キリがない。私は妹の特徴と私と妹の携帯電話の番号を巡査に言い終えると、巡査が自転車で走り去った方向と逆の方向に駆けだす。
・・・いない。妹はどこにもいない。私は二時間近く妹を探し回った。いない。そろそろ、派出所に戻り、巡査を呼び戻して次の行動を話し合った方がいいかもしれない。私は派出所に戻る。いない。やっぱり、妹は帰ってきていない。ここにいないということは、妹は見つかっていないのだ
。探しに出て行ったはずの巡査はすでに戻ってきていて、何故かうらはと話をしている。私はフラフラと派出所の扉を開き、床に座り込む。かなり疲れた。
「巡査さん、妹は・・・。」
「ちょうど、君に連絡しようと思ってたところなんだよ。」
「えっ、妹は見つかったんですか!」
「無事だそうだ。」
「・・・よかった。で、どこに・・・。」
私はノロノロとパイプ椅子にはい上がり深く腰掛ける。巡査は私の前に茶碗をおく。中には水が入っている。私はそれを一気に飲み干す。しまった、こんなところでものを飲んだら、自白剤が入ってるかもしれない・・・。
「西嶋さん、大丈夫ですか?」
「疲れました。それよりも、美樹は・・・。」
「妹さんは木谷荘にいるらしいですよ。」
「木谷荘?・・・うらはさんの家ですね?」
私はうらはさんの方をみる。うらはさんは困った顔で口を開く。
「美樹さん、二十分ぐらい前にうちに来て、部屋にすぐ入りたいって。なんだか泣いてて、様子が変だったので美樹さんを私のベッドで休ませてから、念のため晶さんのお宅にうかがったんです。そしたら、ドアも開けっ放しで、食器とか割れてるし事件だと思ってここに来たんですよ。そしたら、こちらの巡査さんが通りがかってくれて・・・。」
「なるほど。・・・あいつ、怪我とかしてませんでしたか?」
「大丈夫です。祖母が見ててくれてるはずですし。」
「そうですか・・・。なら、迎えに行きますか。」
「いえ、今日はもう遅いですし、うちなら問題ないですので。明日にでも。」
「でも・・・、いや、わかりました。明日でかまわないんですね?」
「ええ。」
「あいつも、頭を冷やす時間とか必要な気もしますし、すいませんがよろしくお願いします。妹に明日の朝迎えに行くと伝えておいてください。」
「わかりました。では、私は失礼いたします。おやすみなさい。」
「おやすみなさい。」
うらはさんは頭を下げると、派出所を出て行く。一瞬送ろうかと思ったが、私もヘトヘトなので、素直に帰ることにする。巡査に礼を言って派出所を出る。巡査は「もうくるんじゃんじゃないぞ。」
とはいわなかった。ずいぶんドラマでみたのとは違うものだ。家に帰り着くと部屋の中には綾さんがいた。
部屋が片付いている。どうやら、片付けてくれたようだ。
「おかえりなさい。大丈夫ですか?」
「片付けてくれたんですか?」
「ええ。割れた食器は袋に入れて玄関のところに置いておきました。他のゴミも掃除しておきましたよ。」
「ありがとうございました。で・・・。」
「いえ、タッパを取りに来ただけです。あんなだったから驚きました。」
「美樹のやつが綾さんに煮物をもらったといったとたん暴れて・・・。」
「そうですか・・・。まあ、彼女にしてみたら、私のことは気に入らないでしょうからね。」
「どういう意味です?」
「そうですね・・・。美樹さんから何も聞いてませんか?」
「下宿が決まって落ち着いたら話すと入ってましたが・・・。」
「下宿は決まったんですか?」
「ええ。運送屋さえ手配できたら、二・三日で入居できるみたいです。」
「・・・なら、彼女に直接聞いた方がいいかもしれません。」
「・・・そうですか・・・。」
「ええ。彼女から聞く前に私から聞いたことがバレたら、また、ヘソを曲げてしまうかも。」
「なるほど。」
「私も、彼女は好きじゃないです。これだけは確実。」
「・・・。」
「そろそろ、失礼します。おやすみなさい。」
「・・・おやすみなさい。」
「あ、そうだ。一つだけ。」
「なんでしょう?」
「あなたのことは嫌いじゃないですよ。それでは。」
綾さんはニッコリとほほえんで立ち去る。私は、いろいろと面倒になって、そのまま玄関で寝た。
朝だ。私はボンヤリとした頭のままで目を開く。見慣れない天井だが、確かに自分の家であることは認識できる。私はノロノロとポケットから携帯電話を取り出す。日時を確認する。日曜日の朝だ。そうだ・・・昨日は仕事の予定だったのだが、休んだ。それから、妹の下宿探しを手伝って・・・。そこでハッとして、一気に覚醒する。私は玄関に転がっている。昨日は疲れ果てて帰り、風呂にも入らず、布団も敷かずに玄関で倒れ込むように寝てしまった。私は重い頭を振りながら起き上がる。とりあえず、汚れた服を洗濯機に放り込み、シャワーを浴びる。歯を洗って、着替える。
さて、何はともあれ妹の様子を見に行こうと玄関を開けたと同時に、携帯電話が"カタツムリサンバ"を奏で出す。会社の部下からだ。別に望月遥香のファンというわけではない。何かの飲み会で誰かがいつの間にか私の携帯電話の着信音を変更し、それっきりになっているだけだ。
まあ、それはいいとして、過去の経験からいって、このようなタイミングでの部下からの電話はろくな内容ではない。無視しようかと思ったがそうもいかず、とりあえず出る。憔悴しきった声で部下が、必死で何か訴えている。私はため息をつき、話を聞く。
私は部下の発する台詞を一分ほど聞いた後、電話をしながら駆けだしていた。玄関の鍵は閉めただろうか。いや、別に特別盗まれて困るようなものはほとんどはないから、頭の中で鍵はかけたことにする。大きな通りまで走り、タクシーを拾う。タクシーの運転手に会社の名前を言う。タクシーの中でも部下の説明は続いている。ようやく電話が終わり、私は大きなため息をつく。こんなタイミングでやっかいなことが起こるというのはどういうことだろう。いつでも問題は一番起こってほしくないときに起こるものだとしても、もう少し何とかしてほしいものだ。私が会社に急行し、クライアントとの問題を何とか軟着陸させた頃、既に十二時間が経過していた。最後に時計をみたとき朝の十時だった。今は夜の十時だ。ちょうど時計の針が一周してしまった。妹へ何か連絡しておけばよかった、と気がついたのは会社の玄関を出たところでだった。空腹と疲労でフラフラだったが、私はとりあえず木谷荘に電話をかける。何度かのコール音の後、うらはさんが電話に出る。
「こんにちは、うらはさん。」
「こんにちは。美樹さんの調子はいかがですか?」
「は?そちらにいるのでは・・・。」
「いえ、美樹さんはお昼頃に晶さんの下宿にいくといって、お出かけに・・・。」
「そうですか、実は今まで急用で留守にしてたんです。わかりました、家にかけてみます。」
「それは、お疲れ様でしたね。美樹さん、もう落ち着いてたみたいですから。」
「ご迷惑をおかけしました。」
「いえいえ。大事な店子さんですから。」
「なるほど。ま、それでは、失礼します。」
「はい、さようなら。」
私は電話を切ると、妹の携帯電話へ電話をかける。妹の携帯電話は電源が切られているらしかった。急に不安になってくる。まさか、またどこかへ飛び出していってしまったなんてことにはなっていないだろうか。冷たい汗が出てくる。妹はなんだか問題を抱えている。現状でその相談にのれそうなのは私だけだ。しかも私は妹に今日の朝に迎えに行くといっておきながら行かなかった。連絡もしなかった。
仕事だったというのは理由になるだろうか・・・。家族か仕事かといわれて、どちらを選ぶのが正しいのか。仕事をしなければ明日から橋の下で暮らすことになりかねないし、家族が何物にも代えられないものであるというのもまた事実だ。仕事か恋人かみたいな比較もよく聞くが、どちらにせよ同じ基準で両者を比較すること自体に無理がある。どちらも別の次元の物事であり、どちらも大切だというのが、たぶん正解に近い気がする。私は仕事に多少の悪影響があったとしても、妹の様子を先に見に行くべきだったのか。こうも考えられる。私が仕事を選んだことで窮地を救われた人間は少なくとも五人。妹はたった一人。仕事と妹なら、仕事の方が四人も多い。妹は血のつながったかけがえのない家族で、何か方向が間違っている気がするときもあるが、私を好いてくれている。私に窮地を救われた部下も私を嫌ってはいないのだろうが、仕事のつきあいだけの関係だ。赤の他人。質か量か。妹か仕事か。いや、そうじゃない。私はわかっている。私は妹を、家族を選ぶべきだった。私は心の中で、はじめから結論を出していた。しかし、実際の行動では仕事を選んでしまった。だから、仕事を選んだことを正当化できる理由をこうやって未練がましくひねり出そうとしていたわけだ。私は妹の携帯電話へ電話をかけ続けながら、タクシーを拾い家に急行する。行きも帰りもタクシーだ。後できっちり請求しておかないとそこそこの金額になってしまっている。無理を承知で、タクシーの運転手に目一杯急ぐように頼む。タクシーの運転手は苦笑いをしながら、ある程度速度を上げてくれる。法定速度プラス十五キロってところだろうか。法律的にはどうだか知らないが、世間一般ではプラス十キロまでは違反ではない。そうして、到着した下宿の前が何やら騒がしい。普段ならこの通りはこの時間には閑散としてしまう。しかし、下宿の前に二十人以上の人だかりができている。下宿の住人も玄関から顔を出し、なにやら一階の様子を不安そうに見ている。私はタクシーの料金を払い、人だかりに加わった。人だかりが注目するのは綾さんの家だった。事件か?幸いなことに綾さんの身に何かが起こったわけではなさそうだった。綾さんは無事な姿で玄関先に立っている。綾さんは玄関先に付いた薄暗い蛍光灯の下、青ざめた表情で警官に何か説明している。警官はそれを聞きながら扉を熱心に調べている。その扉には見慣れないものがぶら下がっている。警官は熱心にその見慣れない何かを調べているようだった。
なんだろう・・・。ここからだと遠いのと薄暗いのとでよくわからない。私は人だかりを押し分け、目を凝らす。あれは・・・私はその正体に気がついたとたん驚きの声を上げてしまった。扉にぶら下がっているのは、猫だ。黒い猫が扉に釘か何かで打ち付けられているのだ。断末魔の痙攣なのか、時折猫はヒクヒクの動いている。猫の首に長いものが突き刺さっていて、それが扉にまで達しているのだろう。他にも数カ所釘が打ち付けられている。扉に血が垂れ、蛍光灯の明かりがヌメヌメと反射している。子供向けかつオタク向けの擬人化動物アニメでキリストの磔刑シーンを再現するとこんな感じなのだろうか。警官は残念ながら目が不自由というわけではなさそうだ。その時、綾さんが私に気がついたようだった。綾さんが手招きする。警官は昨日の警官と同じ人で、私のことを覚えていた。軽く頭を下げ挨拶する。私は人だかりの輪から抜け出し、綾さんに話しかける。
「晶さん・・・。」
「・・・あれはなんですか?」
「猫・・・です。」
「・・・いや、猫なのはわかったんですが、何であんなところにあんな風に・・・。」
「・・・私にもさっぱりです。・・・この猫、さっきまで鳴いていたんですが、もう・・・。」
私は思わず顔をしかめた。急に血の臭いが気になり始める。さっきから臭っていたのだが、意識してしまうとますます気になり出す。警官が寄ってきて綾さんに私との関係を問う。綾さんは私との関係を警官に説明する。何でこんなことになっているのか聞いてみたところ、警官は肩をすくめ、悪質なイタズラのようだとコメントをくれる。誰がやったかはまだわからないらしい。いったい、猫を人の家の玄関にこんなものを吊して何の利点があるのだろう。狂人の仕業でないなら、嫌がらせ以外に理由は思いつかない。よくミステリにある不可解な状態のように、こうしなければならなかった真相などあり得そうにない。兎も角、警官曰く、不審者の聞き込みからはじめ、念のため近隣住民に注意を促すことになりそうな状態らしい。私はいつまでも見物している時間のないことにようやく思い至る。綾さんと警官に挨拶して、家に引き上げる。いきなり、警官に犯人扱いされ、警棒で殴り倒されることもなく、私は部屋へ帰ることができた。日本の警察は穏和になっていっているのだろうか。私が警察という組織に対して何か思い違いをしている可能性もある。
玄関の鍵は開いていた。やっぱり、閉め忘れていたようだ。私は扉を開き中の様子をうかがう。暗い。猫をあんな風にした狂人が私の部屋に潜伏していないとも限らない。気のせいか下でかいだ血のにおいが充満している気がする。鼻にこびりついてしまったのかもしれない。私は靴を脱いであがりがまちに足をかける。ヌルリとした感触を足に感じる。部屋の明かりをつける。明るく照らされた玄関には、血が垂れていた。血はまだ生乾きだ。充満する血のにおいは、気のせいではなかったようだ。私が最後にみたときには玄関に血など垂れていなかった。猫の血か人間の血かなんてわからないが、このタイミングでこういうことになっているということは下の事件と関係があるのだろう。私は血で汚れた靴下を脱ぐと、急いで下にいる警官を呼ぼうと扉を開ける。そのとき、風呂場から妹の声が聞こえたような気がし、扉を締め鍵をかける。妹がいるのなら、警官を呼ぶよりもまず話を聞きたい。狂人が潜んでいる可能性もあるのだが・・・。
「美樹、いるのか。」
「・・・。」
「美樹?」
「・・・ううっ・・・。」
私は風呂場の扉を開ける。中には服のままシャワーにうたれ、美樹がうずくまって泣いている。風呂場には金槌が転がっていて、壁面のタイルや床のタイルが砕かれ、破片が散乱している。大きな釘が散乱している。私はシャワーがかかるのを気にせず、美樹の顔が見える位置にしゃがみ込んだ。私の服が水で重くなる。
「美樹・・・。」
「・・・。・・・なんで・・・。」
「うん?」
「なんで・・・なんで、来てくれなかったのよ。」
「すまなかった・・・次は最優先だ。駆けつける。」
「・・・。」
「美樹?」
美樹は私に抱きついてくる。私は、無論、それを払いのけたりせず抱きとめる。頭をなでてやる。美樹は私の背広に顔を埋め、しばらく泣いた。三十分もそうしていただろうか。美樹が立ち上がる。私も立ち上がる。
「怪我してないか?」
「・・・してる。」
「どこだ。」
「膝が痛い。」
見れば膝が擦り剥いたようになっている。出血は続いているようだったが、次から次へと流れ落ちる水によって洗い流されている。
「部屋に戻って、手当てするか?」
「・・・うん・・・あのね。」
「なんだ?」
「だっこ。」
「は?」
「だっこで部屋まで行って。それから治療してくれたら許してあげる。」
「・・・仰せのままに。」
私は美樹を抱え上げ、濡れたままで部屋に移動する。
こたつの上に美樹を腰掛けさせてから、風呂に舞い戻り、タオルで自分の体を拭き、パジャマに着替える。ついでに流し台の下にしまってある救急箱をとってくる。美樹のパジャマも用意する。多少サイズが大きいが風邪を引くよりはいいだろう。こたつまでの畳がすっかりぬれてしまっているが、とりあえず無視。そういえば、玄関の地も拭いておかないと・・・。私は美樹にタオルとパジャマを渡し、救急箱を開く。救急箱からはいつも通り消毒液のにおいが漂ってくる。傷口をガーゼで拭き、マキロンをぶっかける。別のガーゼを傷口の上にあてて、テープで固定する。まあ、そう深い傷でもなさそうだから、こんなもんだろう。
「治療完了だ。」
「ん、ありがとう。」
「俺は玄関拭いてくるから、それに着替えて。」
「ん。」
私は玄関の血をぞうきんで拭き取る。こんなところを誰かにみられたら、とんでもない誤解を受けそうだ。まあ、下で警察沙汰になっているから、証拠隠滅に他ならないのだが・・・。よく刑事ドラマとかで犯人が血を拭き取った跡をルミノール反応液で見つけるなんて話をしているが、まさにその犯人の気持ちがわかる一瞬だ。ルミノール反応って動物の血液でも反応するんだろうか。まあ、同じような成分だろうから反応しそうだ。私は警官が踏み込んでこないことを祈りながら証拠隠滅の作業にいそしんだ。私が部屋に戻ると美樹はこたつに潜り込んでいた。眠っているようだ。今日もいろいろと聞きたいことが聞けそうにない状態になってしまった。私は部屋の照明を切り、美樹を起こさないように布団を敷き、倒れ込む。疲れがたまっている。明日は平和な日であるように何かわからないモノに祈りを捧げながら、私は眠りに落ちた。
翌日。今日は月曜日だ。新たな一週間が始まる。美樹をどうするか。家に放っておくと、またとんでもないことをしてくれそうだ。かといって、綾さんに任せるわけにもいくまい。綾さんに任せるなんて言ったら、余計すごいことになってしまうだろう。うらはさんの喫茶店においてもらうのはいい案かもしれない。しかし、いきなり当日の朝に頼むのは気が引ける。私は会社に連れて行くという暴挙に出ることを決心する。現場の責任者に妹が病気で目が離せないから連れて行くという無茶をねじ込む。どうやら、現場の責任者には美樹と同じぐらいの娘がいるらしく同情を引けたようで、さほど苦労することなく説得完了である。
会社に連れて行くと美樹に言うと、美樹は踊り出さんばかりに喜んだ。えらいはしゃぎようで、とても病人には見えない。困ったものである。私は美樹に病気のふりをするように言い聞かせ、会社のセキュリティゲートをくぐる。当然、美樹はIDカードをもっていない。ゲスト用が借りられるかもしれないので、外で待たせる。私のカードで一緒にはいることは可能だが、責任者にあらためて一報入れてからの方がいいだろう。私は出社早々、責任者のデスクへ行って、美樹をどうすればいいか相談する。責任者はゲストIDカードを渡しながら、どういう病気なのか聞いてくる。とりあえず、心の病であると答える。責任者は深刻そうな表情になり、それならば騒がない限り私の後ろの席に座っていてもらいなさいと提案する。何となく居心地が悪いことになりそうだが、安心ではある。私は礼を言って美樹を迎えに玄関に戻る。美樹は会社の前のバス停のベンチに座って、おとなしく私を待っていたようだ。私はIDカードを渡し、朝の挨拶を同僚と交わしながら自分のデスクに向かう。美樹を後ろの席に座らせる。あちこちから好奇の視線を感じる。実際に質問をしてくる人間は今のところいない。挨拶止まりである。私はパソコンを起動し、その起動処理中に雑誌コーナーから適当な雑誌を持ってきて美樹に渡す。パソコン専門誌とビジネス誌しかないが仕方あるまい。まあ、パソコン誌ならば、パソコンをさわることもある美樹の暇つぶしにもなるだろう。美樹は微妙な表情でそれを受け取るとおとなしく、読み始める。私はパソコンにログインし、メーラを起動する。いつもなら新規メールは十数件といったところだが、三倍ぐらいメールがやってきた。件名をみると・・・「白石さんの娘ですか」
「犯罪です!通報しました」
「紹介してください」
「朝からナンパはダメ」
「ついに誘拐ですか」
とか意味不明のメールが大量に・・・。インスタントメッセージングのソフトが起動したとたんに、同様のメッセージがメールの倍ほども届く。私は苦笑しながら、メーリングリストに適当な説明を流す。
すると、すぐに自らオタクであるとカミングアウトしている別チームのエンジニアからメッセージが届く。彼は私と同年代なのだが、しばしば謎の台詞で我々を困惑させることがある。
『かわいい妹さんだ!』
『ふつうふつう。』
『いや、かわいいですよ。しかし、アレです』
『ドレだ。』
『白石さん、妹好きの人間からみたら夢のような状態ってわかってます?』
『しるか!』
『オタク仲間に何人もいるけど、言ったら白石さん殺されますよ。』
『言わないでいいから・・・。』
『どうしようかな・・・。今日の昼食ご一緒できたら考えましょう(=_=)』
『飯食うぐらいならいいが、変なこと教えないでくれよ。』
『そりゃもちろん。あ、そうだ。大事な質問』
『・・・聞きたくないが。』
『妹さんになんて呼ばせてます?』
『は?』
『白石さん。わかってないな。これみて勉強しないと。』
『シスプリ?・・・なんだこれ。』
『まあ、勉強しておいてください!』
『そろそろ、仕事・・・。』
『今からしますよ。どうせ残業だ』
『そっちも酷いらしいね。』
『ま、いつものことですから。』
『そうだな、じゃ』
『じゃ』
すでに仕事をする気力が一気に萎えてしまっている。私はさっきのサイトを斜め読みしてみた。・・・みなきゃよかった。なるほど、彼はこんな世界に住んでいるのか。美樹みたいなのが十二人もいたらいったいどうなることだろう。私は思わず身震いする。私は未知の世界の知識で混乱した頭を何とか鎮め、仕事に取りかかる。今日も仕事は大量だ。美樹を深夜残業につきあわせるのは申し訳ない。いつもよりも真剣に仕事をこなす。気がつくと、昼休みのチャイムが鳴っていた。私は背伸びをして、立ち上がる。美樹に何が食べたいか聞こうと後ろを向くと何かが視界を遮る。障害物は巨体の男だ。障害物は心から楽しそうな笑みをたたえている。
「来ましたよ。」
「本気だったのか・・・。」
「無論です。」
「やれやれ、だ。」
私は肩をすくめて、笹本に美樹を紹介する。
「これが妹の美樹だ。美樹、この人はこのフロアで働いている笹本優さんだ。昼ご飯をごちそうしてくれるらしい。」
「笹本です。仕方ないなぁ、妹さんだけですよ。」
「わあ!ありがとうございます、笹本さん。」
「ちなみに私のことは兄くんと呼んでもらってもかまいません。」
「?」
美樹が昼食の誘いにほほえむと、笹本は端から見てもわかるぐらいに緩みきった顔になる。なるほど、妹好きとはこういう種族らしい。その後の兄くん云々というのは何だろう。あにくんあにくん・・・普通は兄さんとかお兄ちゃんとかそういう風になると思うのだが・・・。きっと、さっきのサイトをよく見ればどこかに書いてあるのだろう。
私は緩みきった笹本兄くんの表情を見ながらため息をつく。さぞや楽しい食事になることだろう。
何とか定時までに最低限の仕事をこなした私は、美樹を連れだって異例の早さで家路につく。定時で帰ることに関して、病人がいるなら仕方がないと思ってくれているのか、それともうまい口実を作ってズルをしていると思われているのか不明だが、どこからも異論は出なかったようだ。正直、定時で帰るのは当たり前だと思うのだが、こういう職種の現場ではむしろ定時以降が本番といった雰囲気さえある。夕食代わりに途中の焼鳥屋に入る。一度会社の飲み会で貸し切ったことがある店だが、個室があったりしてなかなかに居心地がいい。幸いなことに個室が開いているのでそこに転がり込む。美樹も慣れない場所で一日を過ごしたせいか疲れているようだ。美樹は感心したようにつぶやく。
「会社ってあんなところなんだね。」
「そうだな。まあ、パソコンやってる仕事はあんな感じだと思う。」
「えっと・・・笹本さん。年下が好きなんだね。」
「あれは年下好きっていうのかな・・・。ヤツは年下というよりも妹が好きなんだ、きっと。たぶん。」
「妹?」
「あー、なんだっけ・・・。変なサイトがあってな。妹がいっぱいいるアニメだかなんだか・・・。」
「えー、なにそれ。」
「・・・わからん。」
「ふーん・・・あにくんとかよくわからないこといってたけど・・・。」
「ああ、たぶんそれもそのアニメだ。」
「あはは。あにくんなんていわないよね、普通。そうだ。今度レンタルしょっか?」
「俺が借りに行くんじゃなければみてやらんこともない。」
「怖いもの見たさってやつだね。」
「おう。」
会話がとぎれる。私はぼんやりと美樹の顔を見つめる。何となく思い詰めたような表情だ・・・。
「・・・。あのね・・・。」
「うん?」
美樹の声のトーンが一段階下がる。私は妙な雰囲気を感じて身構える。やっといろいろいう気になったのだろうか。美樹は私から目をそらすと小さな声で、はっきりと言い放った。
「私はね、お父さんの娘じゃないんだ・・・。」