王国
白石晶
第一章
お嬢様の夜
わたしは思いきり乗馬用の鞭を振り下ろした。空気を切る音。続いて破裂音が響いた。彼の背中にはミミズ腫れができた。二発、三発・・・何度も彼の背中を打った。力一杯打った。彼はうめき声を発した。彼の声はとても耳障りで、イライラした。男が裸でうめいているのだ。汚いったらない。
「なによ、不満そうな声だして・・・文句あるの?」
「・・・。」
彼は四つんばいの姿のまま、首を横に振った。わたしはうつむく彼の顔をのぞき込んだ。彼の顔に浮かんだ感情は、たぶん・・・悲しみだった。期待していたのはそんなものではなかった。彼の顔を恐怖で歪ませたいのだ。思い通りにならないイライラが爆発しそうだった。彼の耳を捻り上げ、引っ張り、上を向かせた。顔を近づけ、彼の目をのぞき込んだ。彼の目に、ようやく脅えの色が浮かんだ。彼の目には薄い水色のワンピースに身を包んだわたしの姿が映っていた。さらに指に力を込めた。彼の耳に爪が食い込み血が滲んだ。彼は小さなうめき声を上げた。わたしは彼の耳に口を寄せ、囁いた。
「痛いの?」
「うう・・・い、痛いです。」
「わたしを見なさい。」
耳から手を離した。彼は命令通りに自ら顔を持ち上げ、わたしを見上げた。すかさず鞭で彼の頬を打った。反動を利用して反対側も打った。彼は再びうめき声を発した。
「痛い、ですって?」
「い、痛いです。」
「そう、痛いの・・・かわいそうね。」
「許してください・・・ごめんなさい・・・。」
「でも、わたしの痛みほどじゃないと思わない?」
「・・・ご、ごめんなさい。」
「質問に答えてない!話もできないのね、このカス!」
「・・・ごめんなさい・・・い、痛かったと思います。」
「もう、その質問は終わってんのよ!」
わたしは鞭を振り回し、彼のいたるところを打った。彼は「ごめんなさいごめんなさい」と壊れたレコードのように同じ台詞を繰り返した。イライラした。左手でしっかりと握っていた車いすのハンドリムが汗で滑った。その拍子に車輪が動き、狙いが反れ、鞭が空を切った。イライラした。服で汗を拭った。服が汚れた。イライラした。わたしは鞭を振るい続けた。何度も何度も彼を打った。イライラは鞭を振るうごとに大きくなり、怒りとなって、わたしを更なる暴力へと駆り立てた。彼の背中や腕、尻、太もも・・・至る所に痣ができ、皮膚が裂け血が流れた。顔は目立つので避けていたが、打てば打つほど、どうでもよくなった。血の臭いがした。わたしはその臭いに興奮した。わたしは笑い声を上げていた。カッと頭に血が上り、自分でも訳のわからない感情が渦巻いていた。彼は裸で縮こまり、痛みに悶えた。汚かった。汚い!汚い!一番多く、汚い血で汚れている場所を、もっと強く打ち据えてやろうと、大きく鞭を振りかぶった。途端、鞭が手からすっぽ抜け、飛んでいってしまった。手の平をみると、いつの間にか皮が擦り剥けて血が滲んでいた。ヌラヌラした。手の平だけでなく腕も手首も、なんだか痛くなっていた。わたしは肩で息をしていた。彼女が、わたしの耳元にソッと囁いた。
「お嬢様、今日はそれぐらいに・・・。」
「・・・次は・・・こんなもんじゃすまないわよ。」
「・・・ぅ・・・うう。」
「何とか言ったらどう!」
「ヒッ、ご、ごめんなさい。」
「あんたの『ごめんなさい』は聞き飽きたわ・・・ふん・・・寝る。」
彼女は床に転がった鞭を拾い、コンクリートの壁に打ち付けてある釘に引っかけた。壁も床もコンクリートがむき出しだった。コンクリートの表面はザラザラとしていて、湿っていた。わたしは裸電球に照らされた家具も何もない殺風景な部屋を見回した。彼は、まだ部屋の真ん中で丸くなって、うずくまっていた。彼も部屋も全部汚かった。明日の朝一番、彼女に掃除させれよう。彼にも部屋にも水をまいて、モップかブラシで擦れば汚れも多少はマシになるだろう。再び、こみ上げてきた感情にまかせ大きな声で笑った。ひとしきり笑いの発作が治まると、彼女に扉を開けさせ彼の部屋を後にした。ハンドリムを握る手の平がヒリヒリした。廊下は薄暗く、ホコリが厚く積もっていた。あの日以来、誰も掃除などしたことがなかった。ホコリで車いすの車輪が少し滑った。・・・誰も困らないから放っておいたが、一度掃除させた方がいいかもしれない。ハンドリムを握り直し、車いすを反転させた。わたしは、ひっそりと付き添う彼女を見上げ、命じた。
「明日、わたしが出かけてる間に廊下を掃除しておきなさい。」
「かしこまりました。業者を入れてもよろしいでしょうか?私一人では少々・・・。」
「あんたがやりなさい。いつも通るところだけでいいから。」
「かしこまりました。」
「それと、明日、わたしが起きる前に彼の部屋に水をまいて、ブラシか何かで綺麗にしなさい。彼も洗っておくのよ。服もくれてやって、外出できるようにしておきなさい。」
「かしこまりました。」
「・・・手が痛いわ。押して。」
「はい、お嬢様。あの・・・。」
「何?」
「後で傷薬をお持ちしましょうか?」
「・・・早く押して。」
「・・・はい。」
わたしは自室の前で、手を振って彼女を追い払った。自室の扉を開けた。廊下と違い、清潔で柔らかい光に満ちていた。時計をみると二十二時を回っていた。いつもならインターネットで友人とチャットでもしている時間だった。あのカスのおかげで今日は疲れたし、手がヒリヒリした。キーボードを叩く気分じゃなかった。今日は風呂に入って寝ることにした。わたしは呼び鈴を鳴らした。すぐにノックの音がして、彼女が現れた。手には救急箱を持っていた。言いつけを守らない彼女にもお仕置きが必要かもしれなかった。
「風呂にはいるわ。脱がせなさい。」
「はい、お嬢様。」
彼女は車椅子に座った状態のままのわたしの服を丁寧に脱がせていった。すぐに全裸にされた。わたしは恐る恐る体を見下ろした。右胸の下から左太ももに至る傷口が露わになっていた。左太ももから先は・・・何もなかった。手が震え出した。震える指を切断面に伸ばした。指がそこに触れた。瞬間、喉の奥から悲鳴が漏れそうになった。そのとき、彼女がわたしの頭を優しく撫で、傷口に触れようとしたわたしの手を押さえ、傷口の上ににタオルを掛けた。傷は見えなくなった。彼女はわたしをかかえあげ、湯船へと運んだ。浴室には温泉が引いてあり、二十四時間入浴できた。この家で唯一のまともで正常な場所かもしれなかった。わたしは湯船につかってゆっくりと目を閉じた。体にたまった疲れが滲み出るような感覚。気持ちよかった。大きく伸びをし、立ち上がろうとした。左右の足が完全ならば、私は湯船から無事に立ち上がることができただろう。しかし、わたしの左足はあの海で失って以来、行方不明だった。わたしの体は大きくバランスを崩した。足がすべり、バランスを失ったわたしの体は湯船の中に倒れ込んだ。恐怖で頭がいっぱいになった。無茶苦茶に暴れ、叫んだ。すぐに酸素が欠乏し、体は大きく空気を吸い込もうとした。しかし、吸い込んで肺に入ってくるのは水ばかりだった。心臓が激しく脈打つ。意識が薄れそうになったとき、彼女がわたしを水の中から引き上げた。激しく咳き込み、嘔吐した。口の中に苦い味が広がった。薄黄色い液体は半開きになった口から糸を引いて、垂れた。激しく息をしながら、ジッとそれを見つめた。汚れていく・・・。汚い。わたしは口を閉じ、唾を何度も飲み込んだ。だんだん落ち着いてきた。その間、彼女は服のままわたしを後ろから抱きしめていてくれていた。わたしはようやく落ち着くと、彼女に命じた。
「体を洗いなさい。」
「はい。」
彼女は何事もなかったかのように素直に答えた。風呂を済ますと、再び彼女に命じパジャマを着て、そのまま就寝した。就寝前に彼女はわたしの手に薬を塗った。
第二章
彼女の朝
目覚まし時計が鳴った。今日も睡眠不足だった。しかし、ゆっくり寝ているわけにはいかなかった。お嬢様が起き出す前に命じられた仕事を済まさなければならなかった。彼と彼の部屋を水で清めるという仕事だった。私は洗顔をすませ、作業着に着替えると、倉庫からホースとデッキブラシを出した。それを持って彼の部屋に向かった。彼の部屋の南京錠を外し、扉を開けた。彼は部屋の隅に全裸でうずくまっていた。まだ寝ているようだった。私は床にある蓋を開き、中の蛇口にホースを繋いだ。ハンドルを冷水の方に目一杯ひねるとホースから水が吹き出した。ホースの口を親指で潰し、シャワーのように噴き出す水を眠り続ける彼に向けた。彼は急に水をかけられ飛び起きた。私は彼に水をかけ続けた。彼を一通り水浸しにすると、部屋中に水を撒いた。部屋の温度が一気に下がった。彼は部屋の隅でガクガク震えていた。私はホースを置いた。ホースの水を出したままにして、デッキブラシを手に取った。デッキブラシ片手に近づくと彼はますます縮こまり、私を見上げた。
「や、やめて・・・。」
「命令なの。そんなに丸まってちゃ洗えないわ。俯せになりなさい。」
彼は私の方を怯えた目で見上げるばかりで動こうとしなかった。デッキブラシを振りかぶり、彼の側に振り下ろした。彼は脅せばいうことを聞いた。まるで犬のようだった。
「さっさとして。私は別にやりたい訳じゃないんだから・・・。」
「ぅぅ・・・。」
「お嬢様が起き出してくる前に、済まさないとダメなのよ。ホラ、はやく!」
再びブラシで床を打ち据えた。彼はうめきながら俯せになった。私はデッキブラシで彼の背中を洗った。鞭の傷跡からこびり付いた血を擦り落とした。頭、肩、背中、尻、足・・・順番に洗い清めていった。全身に水をかけ、汚れを洗い流す。俯せになった彼の腹の下へデッキブラシを突っ込み、彼を仰向けにさせる。こちら側も上から順に洗っていった。頭、顔、首、肩、胸、腹、腰、股、性器・・・やがて足の先まで洗い終わった。水をかける。彼の唇は紫色だった。あまり冷やしすぎると病気になるかもしれない。私は冷水の方にひねっていたハンドルを湯に切り替えた。彼に湯を浴びせた。彼は湯に入れたエビのようにのたうち、そこら中を転げ回った。私は彼を暖めると、今度は部屋中をブラシで洗った。すっかり部屋を洗い終え、私がハンドルを閉めようと蛇口に近寄ったとき、開けっ放しだった扉にお嬢様が現れた。お嬢様が起き出す前に済ませておけと命じられた仕事は、そろそろ終わりだったが、まだ途中だった。私はお嬢様の命令を守れなかったのだ。体が恐怖にすくみそうになった。腹に力を込め、私は何とか恐怖を抑え込んだ。
「やってるわね。」
「お、お嬢様・・・申し訳ありません。その・・・掃除がまだ・・・。先に朝食をご用意いたしましょうか?」
「掃除を済ませてしまいなさい。私が早く起きただけ。」
私は何とか安堵のため息を飲み込んだ。今のところお嬢様は私の失敗を見逃してくれそうだった。お嬢様は彼に視線を向けると暗い微笑みを浮かべた。
「せっかくだし、見学させてもらうわ。」
「もうほとんど終わってますから、お嬢様は食堂へ・・・。」
「まだよ。」
「・・・。」
「彼の腹の中も綺麗にしなさい。」
「腹の中?」
「ホースで下の穴から水を入れれば綺麗になるでしょう。」
「・・・はい。」
お嬢様は喉の奥で笑った。私は命じられた通り、彼をうつ伏せにさせ、その肛門にホースをつっこんだ。蛇口のハンドルを冷水に回し、彼の腹へ水を流し込んだ。お嬢様は蛇口のハンドルを目一杯回すよう、私に命じた。彼は抵抗する気力も尽き果てたのか、されるがままになっていた。お嬢様は頬を上気させ、その様子を眺めていた。
「いいわよ。そのまま・・・どんどん入れなさい。」
「はい、お嬢様。」
「いいわ・・・。」
「ぅぅぅぅ・・・。」
彼のうめき声が徐々に小さくなっていった。いい加減心配になってきた頃、ようやくお嬢様は蛇口のハンドルを閉じるように命じた。私はハンドルを閉めた。
「ブラシをちょうだい。」
私はデッキブラシをお嬢様に手渡した。お嬢様は尻からホースを生やしたままの彼に近寄り、ニヤニヤ笑いを浮かべながらデッキブラシでホースを引っかけ、抜き取った。途端、彼の肛門から汚物混じりの水が飛び散った。
「ひぃ、汚い!臭いわよ!あはははは!」
お嬢様は彼と彼のまき散らした汚物を指さし、楽しそうに笑った。私は震えながら、その様子を見守った。お嬢様は彼の惨めな姿を堪能すると、私に彼の汚物の掃除を命じた。私は水ですべてを洗い流し、彼にタオルと服を与えた。彼がノロノロと身支度を始めたのを確認すると、お嬢様は食堂へ向かった。私もお嬢様に付き添って食堂へ移動した。
第三章
お嬢様の朝食
わたしは机の前に座るとリモコンを手に取り、テレビの電源を入れた。ちょうど七時のニュースが始まった。髪をいじりながらボンヤリと画面を見つめた。彼女にはわたしが起きる前に、彼と彼の部屋の掃除を済ませておけと命じてあった。しかし、掃除中に顔を出してしまったため、内心かなり焦っているようだった。脅かすつもりはなかったのだ。彼女は熱心に料理をしていた。玄米パンにレタス、ハム、モッツァレラチーズ・・・あれは自家製マヨネーズだろうか。彼女の手によって、サンドイッチが姿を表しつつあった。わたしの好物だった。戸棚からバウルーを取り出し、サンドイッチを挟む。今日はホットサンドイッチだった。彼女にしてみれば、わたしの好物を集めた食事で機嫌をとって、お咎めなしといきたいところなのだろう。さっき言ったとおり、わたしが早く起きすぎただけなのだ。彼女に非はなかった。彼女が気にすることはないのだが、わざわざ教えてやることもないだろう。彼女にも彼にもわたしの与える恐怖が必要だった。この家はわたし中心に動いていた。皆がわたしを恐れ、そして敬っている限り、安定した毎日が過ごせるのだった。平穏な日々は何物にもかえ難いのだ。安定をもたらすのが、恐怖による力だとしても構いはしなかった。彼はその罪の意識からわたしに尽くし、彼女は金をもらうためにわたしに尽くす。この家はわたしの支配する世界だった。わたしがわたしの世界について思いを馳せていると、彼女が朝食をトレイにのせてわたしの目の前に置いた。トレイにはホットサンドイッチ、たっぷりのコーヒーと小さなカップに入ったスープが乗っていた。彼女は優秀で従順な召使いだった。わたしは彼女の労をねぎらった。
「ご苦労様。そろそろ彼もくるわ。エサを用意しておきなさい。」
「かしこまりました。」
彼女はサンドイッチを作るときに出たパンの耳をさらに細かくきざみ、ペット用の皿に盛り付けた。ホントに従順。彼女については、なんとなくつまらなく感じるときもあった。時折、わたしを見て震えていることもあるが、わたしが命令を与えると彼女の震えは止むのだった。何か失敗をしてくれれば、もう少し楽しめるのだが・・・。わたしは肩をすくめるとテレビの画面に視線を戻した。テレビでは両親を包丁で刺し殺し、家に火を放った中学生のニュースをやっていた。世の中の時間は相変わらずいつもと変わることなく流れているようだった。テレビの中では、その後も次々とニュースが報じられていった。ニュースを聞き流しながらホットサンドイッチを囓り、コーヒーを飲んだ。コーヒーはブラックに見えたが、仄かな甘みを感じた。わたし好みの味。まったく、彼女はどこまでも優秀だった。何もかも優秀にこなしてくれた。完璧でないこともあるが、失敗だけは絶対にしない彼女だった。一度、あの顔を恐怖と苦痛に歪めてみたかった。どんな顔で、どんな声で鳴くんだろうか。わたしの視線をどう受け取ったのか、彼女はニッコリと微笑んだ。
そのとき、食堂に彼が入ってきた。昨晩や今朝とはまるで別人だった。清潔なTシャツに清潔なストーンウォッシュジーンズ。頬の傷にはガーゼが当ててあった。目立つが、まあ、問題ないだろう。一歩外に出たら、彼は体の不自由な妹をエスコートしてくれる頼れる兄にならなくてはならなかった。いつも仲良く外出していれば、この王国が他人の手によって終わりを迎えることはないだろう。ずっと彼を部屋に閉じこめて、痛めつけてやってもいいが、不審に思った住人がどこかへタレ込んだりすれば、面倒なことになるかもしれなかった。それは避けなければならない事態だった。だから、週に何度かは彼を伴って外出することにしていた。周辺住民に仲のよい兄妹であるところを見せつけ、わたしも街で普通の健全な気晴らしを楽しめるという訳だった。彼女は彼の姿を見ると、テキパキと用意してあったエサにスープをかけ、床に置いた。彼は手を使って、エサを食べ始めた。わたしなら手など使わせず、皿から直接食べるように命じるところだし、暖かいスープをかけるなんて真似はしないだろう。が、今更命令するのも面倒だった。それに出発が遅れたら、それはそれでつまらない。わたしは何も言わず、食事を終え、いったん自室に引き上げた。
終了
2008/03/31: 加筆・訂正